自粛する人々





俗に「放送禁止用語」と呼ばれるものがある。テレビが典型的だが、新聞でもそういう基準はあり、オールドメディアのジャーリズムには共通した対応だ。彼等は「言葉狩り」とか言って、まるで「権力」が力で使用を「禁止」したような言い方をしているが、別に誰かが命令して使用を禁じているものではない。実態としてはマスコミの自主規制で使っていないだけなのだが、あたかも誰か首謀者や黒幕がいる「他責」のような言い回しをしているところがいかにもニオう。

そもそも日本社会は江戸時代以来の「責任転嫁社会」である。他責にして自分の責任を回避することは、ある種悪知恵が働くヤツほど得意であるし、大組織では仕事そのものよりも責任回避の方に汲々としている野郎も多い。それはずる賢い、高級官僚のような秀才エリートの行動様式を見てみればすぐにわかることだ。自分が肚を括って責任を取るのが嫌だから、あたかも誰かに指示されたりやらされたような体裁を取ることで、「私はやっていない」という免罪符にしてしまう。

放送局や新聞社など、マスコミ・報道機関には、慶応・早稲田・東大など偏差値の高い大学の出身者が極めて多い。特に読売とか朝日といった全国紙の新聞社には多いのだが、困ったことに早稲田政経出身者は政治家崩れ、東大法出身者は官僚崩れだったりする。この「コンプレックス」があるから、政治批判や行政批判をしまくるのだろうか。テレビ局もキー局・準キー局はそうだし傾向は似ている。マスコミとは要は一般企業以上に「秀才エリート」の比率が高い企業なのだ。

そういう意味では、日本のマスコミというのは官僚崩れが官僚同様に責任回避による保身のために悪知恵を働かせまくっている組織ということができる。「放送禁止用語」も、その筋の組織から何か言われるのが恐くて自主規制しているだけだ。本来ジャーナリストならば「ペンは剣よりも強い」のだから、誰が文句を付けようが、恐れることなく自分の思う丈を語りつくすべきだ。これができない時点で、もはやジャーナリストとしは失格である。偉そうなことを言うのではない。

この傾向は昨今の企業の対応にも見られる。「秀才エリート」の比率が高い企業ほど、クレーマーの言いがかりに弱く、すぐ自主規制してしまう。秀才エリートが牛耳る組織は、典型的な減点法の評価である。そつなくこなして当たり前、失敗したらサドンデス。役所と同じだ。だからトラブルになることを極度に恐れ、前例主義で失敗のリスクを避ける。これではそもそも経営にはならない。高度成長で肥大した日本の大企業がグローバル化の波に乗れなかった理由がここにある。

この問題がはっきり現れるのは、「炎上」への対応である。昨今では「反社フェミ」にたかられ炎上させられる企業がよく見られるようになったが、その対応はキッパリ二つに分かれる。毅然とした態度を取って正論を貫く会社と、ビビッて自主規制してしまう会社だ。オーナーやファウンダーがいて肚を括った決断ができる会社は、毅然とした態度を取ることができる。しかし秀才エリートのサラリーマン社長では、失敗を恐れるあまり弱腰になる。

企業経営のカギは「肚を括って責任を取る勇気」にある。これができないトップは自粛に走り、企業全体が逃げの姿勢になってしまう。まさに「自粛」はサラリーマン社長と秀才エリートの弱さの象徴なのである。オーナー企業のトップならばそもそも保身に走る必要がないので、無意味な自粛はしない。逃げることは自分自身の否定につながるので、常にあるべき判断ができる(もっともこれは可能性であって、結果的に本人の判断ミスということもあるが、その責任も含めて判断できるということだ)。

そういう意味では、グローバル・スタンダードの経営には、「自粛」という文字はない。どういう判断をしてもそこから発生する責任を全部背負い込む覚悟で判断しているからだ。これではプロと趣味でやってるアマのスポーツ試合のようなもので、そもそも勝負になるわけがない。時代も情報社会となり「勉強と努力」は機械の役割となった。ちょうどいいタイミングである。ここいらで「秀才エリート」は社会的に御用済みにしよう。それが日本再生の最大の鍵になる。

(25/04/11)

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