希少資源としての「才能」
AIが実用化してきたことで、世界的にオリジナリティーや創造性が重要視されるようになってきた。ところが近代に入ってからの日本の教育システムが悪かったせいか、我が国においてはアートでも音楽でも文学でも、高度な技術の職人芸によるクラフト・作り込みと、ユニークで創造性の高い作品創造の区別ができない人がほとんどである。特に秀才エリート。これではAIの活用もおぼつかない。
はっきりいって、本人が何かの面でクリエイティビティを発揮できる能力を持っている人しか、この区別はできないといってもいい。だから誰しもがそれを自らの力で見分けられるとは思わない。それは仕方ないだろう。とはいえ自分がそのどちらに入るのかもわからないまま、その違いを理解して「違いを見分けられる人」の意見に耳を傾ける行動を取ろうとしない人がほとんどというのはいただけない。
「スゴい技」と「スゴい発想」は違うのだ。ラフなクロッキーのような習作でも、見る人が見ればとんでもなくユニークな創造性を持っていることは見抜ける。そういう人は、どんなに余人を持って変え難い超絶技巧を尽くした作品であっても、それが技巧を試すだけの自己満足的な作品なのか、それともその表現には技術だけにとどまらない素晴らしい閃きが隠されているかどうかも見抜ける。
もちろん、その両者を備えた作品もあるし、それを創作できるアーティストもいる。確かに美術でも音楽でも文学でも、その歴史を書き換えてしまったような天才はそういう作品を作る。しかしこの両者は基本的には別の軸である。偶然「二刀流」のように今までになかった技術をこなしつつ、今までになかった表現を作り出したアーティストが、歴史上の偉人として讃えられているというだけである。
基本的な傾向として、技巧の方はある部分努力と鍛錬でかなりカバーできるところがある。伝統工芸の職人などはその典型だろう。基本技をこなす技量があれば、そこから先は修練の賜物である。だからこそ再現性がある。その一方で、真の意味でのクリエイティビティは生まれつきのものである。努力や修練で鍛えられるものでない以上、持って生まれなかった人にはどうしようもない。
それだけでなく、この才能を持っている人は、極めて少数だという特徴もある。100人に一人、1000人に一人、10000人に一人。もっとかも知れない。レベルは違うが、持っている人は希少なのだ。クリエイティブと言うのはそういうことである。超絶技巧の職人はそれなりにいるし、育てることもできるが、無からアイディアを生み出せる人は極めて少なく天性のもの。そして情報社会で求められるのはそういう人材だ。
私は生涯いわゆる「ギョーカイ」と呼ばれる世界の周辺で仕事をしてきているが、世間的に見て相対的に創造性を必要とされるそういう世界の中でも、ビジネス上の付加価値にできるほど創造性を持っているのは限られた人しかいない。いわばそれを持っている人が機関車になり、そうでない人が貨車になって全体として大量の荷物を積んで走っているのが、「ギョーカイ」の企業の常である。
電通の経営計画部門にいた時、故野中郁次郎先生から「電通のパワーの秘密を探る」というプロジェクトを持ちかけられ、私が電通側の担当者になった。一緒に社内のいろいろな組織、いろいろな社員にヒアリングや調査を行った。もう時効だと思うからバラすが、その結果として、当時数千人いた電通の社内でも、真にクリエイティブな人間は100人、かなり甘く判断しても500人はいないという結論になった。
「貨車」社員の方が圧倒的に多いのだが、ギョーカイの常で、本来定型化・機械化すべきだがクライアントニーズの違いにより定型化しにくい作業の方が量的にずっと多いので、結果的に効率よく役割分担して仕事が進んでいるということがわかった。限られた人間の産み出す核エネルギーのようなパワーを、多くのフツーの社員が利用してマネタイズする、というのが電通のビジネスモデルの基本というのがその結論だった。
そうである以上、「創造性を持った人材」こそ情報社会の希少資源だ。人類の趨勢を決めるのは、こういうタレンテッドな人材なのが情報社会の掟だ。こういう人材は、少ないものの必ずいる。どういう国や民族、コミュニティーにもいる。この「奇貨」を大事にできるかどうかこそ、21世紀の情報社会の「勝ち組」を決めるカギとなる。自分は創造性を持っていなくてもいい。創造性を持った人間を、救世主と思って崇められることが大事なのだ。
(25/04/18)
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