差別と平等





「不当な差別を受けている」という人の中には、もちろん一定数いわれのない差別のためにチャンスを掴めない人もいるし、そういう人たちはきちんと救済される必要がある。「機会の平等」を奪うことは、最も人権を否定する行為の一つであり、決して許されるものではない。「門前払い」の足切りは絶対にあってはならないことである。かつてアメリカ南部では有色人種の入れない店があったように、これこそが「差別」である。

しかし「不当な差別を受けている」と声高に叫ぶ人の中には、機会の平等が満たされていたにも関わらず、「求められる能力」を持っていないがゆえに希望が達成されなかった人がかなりの比率で含まれている。彼等は基本的に「他責」で自分の非を認めないので、自分に問題点があったとはつゆ思わず、完璧な自分を何で受け入れないんだ、それは不当な差別だという飛躍した論理を振りかざすことになる。

現代においては選考の際には事前に選考基準が公開されていることがほとんどであり、そのような評価基準がはっきりしている選抜においては、求める能力に関して卓越したものを持っている人材ならば、他の条件を持ち出してそれを採用しないことはほとんどない。したがって真っ当で客観的な判断力の持ち主なら、落ちた理由は「差別」ではなく「求められる能力を持っていない」ことに尽きることが理解できるだろう。

すなわち「弱者」だろうと「障害」があろうと、高い能力を持っている人は間違いなく抜擢されるし、自由主義の世の中ではそれを排除してしまうような組織は競争に勝ち残ることができない。スティーヴィー・ワンダーは誰をも感動させる圧倒的な歌唱力があったから世界的スーパースターになったのであり、彼が視力障害者であるかどうかは全く関係ない。いわゆる「スティーヴィー・ワンダー理論」である。

もちろん「強者」であっても「健常者」であっても、能力が足りない人が合格することはない。それは能力の差であって差別ではない。客観的な人間力の評価である。歌の上手い人、表現力に長けた人もいれば、音痴な人、棒読み歌いの人もいる。そうである以上、同じ歌を歌ってもらっても、歌った人によって感動が違うのは当然であり、より感動させる人に歌ってもらいたいというのは世の常である。

ところが世間には、自分の「至らなさ」を絶対に認めたがらない人が結構いる。彼等は決してひねくれて自己中心的なモノの見方をしているわけではない。それ以前の問題として、客観的・俯瞰的にものを見てありのままの姿を捉える能力が欠如しているためと言った方が適切だろう。知能に障害があるため、大多数の人々が当たり前のようにできていることができない人がいるのと同じである。

こういう人達は自分の能力の低さを棚に上げて、結果がうまくいかないと「差別だ」「人権問題だ」と声高に叫んで、自分達を正当化しようとする。声のデカさからいえば、こういう人達の叫ぶ「反差別」の主張の方が、本当に差別されて問題にしなくてはいけない人達の何十倍・何百倍も強く主張されることになる。特にSNSのような個人発のメディアができてから甚だしくなった。

声のデカさだけで勝負しようというのは、数的には劣勢になってからの左翼・リベラルの常套手段である。マス・ジャーナリズムに反体制崩れの人が多いのをいいことに、マスメディアも味方につけて、内容より声のデカさだけで勝負を賭けようとする。こういう人間力の低い人が「左翼・リベラル」に集まりがちなのも、ここに起因する。

その行き着く先が共産主義国家の「底辺平等=悪平等」でしかないことは、20世紀の大いなる犠牲を伴った「社会実験」により実証されている。そこまで見通すなら、彼等が能力のなさを棚に上げて、地道に頑張って生きることもなく、公金ちゅーちゅーで楽しておいしい生活をしようと思ってしまうのも宜なるかなである。能力がないからこそ、寄生虫のように甘い汁をぶる下がって吸うしか生きる道がないのだ。

情報社会においては、自分の能力を客観的に把握していることが重要になる。もちろん能力の無さをきちんと把握するということも含めてだ。それが欠如している彼等には21世紀の情報社会に生き残れる場所はない。息を継げるのも20世紀の残渣が残っている間だけだ。昨今の大騒ぎは、それを知ってか知らずかの断末魔の叫びということなのだろう。


(25/04/25)

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