ロスト・コンピタンス





20世紀の産業社会から21世紀の情報社会へ完全にパラダイムシフトが見えてきた今、その変化をしっかりと捉え、これからの時代にどう対応してゆくべきかを問うことが最も求められている。将来の歴史家は、AIの完全な実用化とその多方面での導入を、情報社会実現のメルクマールとして捉えるであろう。AIの実用化により機械で処理できるようになったことを、人間系で手間をかけてしか実現できなかったことがどれだけ無駄なリソースを消費していたことだろうか。

筆者が学生時代は、タイムシェアリングで使う大型コンピュータはfortranとかpascalとかの時代ではあったし、マイコン・パソコンが出てきてBASICやマシン語でその限られたリソースをフルにぶん回すプログラムが書けるようにはなっていた。その分、第二次大戦の頃の飛行機の設計とか弾道計算では、人海戦術でタイガー計算機をぐるぐる回して行っていたという話を大先輩から聞いて、人力頼りのすごい時代があったものだとびっくりした。

AIの実用化は、それと同じことが企業や組織の事務・管理などの情報処理において起こるということである。人間系の人海戦術で対応していた情報処理が、機械に丸投げでスマートに処理できるようになるのが情報社会だ。大企業に会社員がいっぱいいることや、行政を役人の大組織でこなしているのは、そこで行われていた情報処理が人海戦術でしか処理できなかった故の帰結である。それがベストでスマートな解決法ではないにしろ、その時代においては必然だったというだけである。

そういう事情があったから、産業社会は数合わせの世界となっていしまった。生産力は機械仕掛けで飛躍的に高まったけれど、それとともに情報処理も飛躍的に増大する。それにリアルタイムで答えを出さなくてはビジネスにならない以上、とにかく人海戦術で情報処理をこなさなくてはならない。かくして個々の人間の能力よりも、組織としての頭数が問われるようになったた。だからこそ大組織・大企業がスケールメリットとしての力を発揮した。

産業社会でも初期においてはチャップリンの「モダン・タイムス」ではないが、工場のラインを全て機械化してオートメーションにはできなかったので、その部分だけを人海戦術でこなすことで機械の発揮する生産性に合わせた工場を稼働させていた。生産プロセスの中で機械でこなせないところは、機械に合わせて人海戦術を発揮し、頭数でこなすことでなんとか辻褄を合わせる。これが産業革命以来、産業社会における人間系の役割の基本となった。

したがって20世紀の前半までは、徐々に機械でこなせる作業が増えてきたものの、ラインには工員が並んで機械の生産性に合わせた作業をしなくてはいけない工程も多く残っていた。ある意味、熟練職人による工場制マニュファクチャリングと、生産性の高い自動機械のコラボである。これは日本の製造業が最も得意としたところだ。しかしそれも、20世紀後半に入ると高度に生産設備の技術が発達し、人間の手作業を介することなく製品を作れるようになった。

この段階になると工場はオートメーション化し、機械の制御やメンテナンスを行う要員だけでラインを動かせるようになった。実際に製品に手を触れ生産活動を行う職能工は仕事を失い。実際の生産活動は機械が行うとともに、人間はその機械を管理する立ち位置になった。さらに70年代のマイコン革命を経た80年代からはコンピュータ・ネットワーク技術の発達により、本社の経営管理のような情報処理に関する業務もだんだんと機械がこなせるようになってきた。

そして21世紀に入り情報社会が到来すると、AIに代表されるように、定型作業はほぼ完璧に機械がこなすことができるところまで進化した。そもそも定型作業は「キチンとできて当然であり、ミスは許されない」ものである。かつて銀行がソロバンの手計算で日毎の集計をしていたころは、ぴったり数字が合うまで何度も計算を繰り返したから、午後3時には窓口を閉めなくてはならなかった。今も残る窓口終了時刻はその時代の名残りである。

このように「機械にやらせたくでもできない」からこそ、人間系で処理せざるを得なかったのだ。そして会社組織も、会社員という雇用形態も、このボトルネックを打開するために「発明」されたものだ(19世紀的な用語では「社員」とは出資者という意味だった)。である以上、産業社会において「会社員」が活用された局面は、もはや人間の活躍するところではない。そしてそこで必要とされたコンピタンスももはや必要とされるものではなくなった。

写真製版になり選字工や植字工のコンピタンスは必要なくなり、デジタル印刷になり製版工のコンピタンスは必要なくなった。それでも印刷物は作り続けられているし、いいグラフィックデザインの本質は同じだ。就活では就職することが目的になってしまっている学生をしばしば見かける。しかし、会社も会社員も産業社会における最適化を図るための手段でしかない。企業の目指すビジョンや個人のやりたい仕事こそが目的なのである。

こういう時代だからこそ、何を目指すのかという本質的な目的が問われている。それがない企業は生き残れないし、それがない個人はブラックアウトしてしまう。努力や勉強は必要なくなる時代だ。暗記や練習をする意味がなくなった以上、その時間こそ自分の目指すべき目的を明確に掴み取ることに掛けるべきだ。それさえしっかり持っていれば、これからの時代は非常に生きやすくなる。情報社会とは「夢こそは全て」な時代になるのだ。


(25/05/16)

(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる