勉強をやめろ、好きで行こう
AIの時代、勉強と努力は人間がいくら頑張ったところで、ネットワーク上のすべての情報を糧とできるAIにかなうワケがない。おまけに向こうはランニングコストは電気代しかかからない。勉強と努力を重ねたところで、コンピュータの電気代より安ければ仕事になるかもしれないが、それでは食っていけない。かくして勉強と努力は、馬術が実用の輸送機関ではなくスポーツとしてのみ生き残ったように、マゾっぽい人の趣味としてしてのみ生き残ることになるだろう。
とにかく、勉強すれば、頑張れば、結果としていい生活ができるというのは、20世紀という時代の歴史上の特徴としてのみ語られるようになった。その時代に育った我々が好きと嫌いとに関わらず強制されてきた学校教育も、全く意味のない時間の無駄と化した。一言で言ってしまえば産業社会の時代とは異なり、人間は天性のものでしか生きてゆく存在感を発揮できない存在になった。もしかすると、20世紀の終わりぐらいから登校拒否が増えたのも、この変化を本能的に察知したのかもしれない。
そもそも日本の近代教育システムは「和魂洋才」「富国強兵」の「追いつき、追い越せ」に最適化すべく明治期に作られたものがベースとなっている。初等教育も中等教育も高等教育も、時代ごとに内容の修正は加えられているものの、骨子は19世紀から脈々と受け継がれている。その証拠に、東京大学の歴史は帝国大学が作られたところまで遡るし、慶應義塾の歴史は福沢諭吉先生から書き起こされる。いずれも明治から続く伝統の上に現在があることを示している。
そして明治の教育システムというのは、その本質的なところで「先行する西欧列強をベンチマークし、その最新の技術や学術の成果を取り入れることで、火急的速やかにキャッチアップを図ることで植民地化の危機から脱する」というものであった。とにかくすでに「あるものを学んで覚えて自家籠中のものとする」ことが目的なのだから、自分で考えることより「勉強と努力」で既存のテクノロジーを自らのものとすることのほうが重視されるようになった。
その結果、勉強が得意な秀才が重用され、学校においては優等生として称賛されるようになった。元来勉強が得意というのは、西欧の先端的な情報をキャッチアップするための手段であったはずだ。だが日本の組織の常で、そもそものその組織の目的は忘れられ、手段だった部分へのオプティマイズが目的化する。学校においてはオールラウンダー的にどの科目でもそつなく「いい点」を取ることが理想とされ目的とされるようになり、それが得意な秀才が賞賛されるようになった。
すでに手段の目的化が起こった時点で社会のニーズからの乖離が起こっていたのだが、AIの実用化により「勉強と努力」は世界的にアウト・オブ・デイトな価値観となった。すなわち日本的な教育のあり方は、二重の意味で時代から離反してしまったのだ。そういう人が全くいないわけではないが、高偏差値の学校から「トガった」人材が生まれにくいのは、こういう秀才重視の教育制度の影響が大きい。AIにより無価値化されるのは、日本においてはなにより教育制度である。
コンピュータを使う側の人間になるにはレーダーチャートの一点だけ飛び抜けていればそれでいいし、それが評価される時代が来た。秀才エリートは、昔からそこはかとなく人間性がなく、マシンのような無機質さを感じさせる佇まいであった。それもそのはず、彼らは人間を捨てて機械に成り切ることで、最高のパフォーマンスを実現することに徹してきた人達だからだ。AIシステムが完璧な秀才狙いできている以上、それと対抗するには一本でもその平均値を凌ぐ軸を持っていればいいのだ。
もはや苦手を克服する意味はどこにもなくなった。好きなこと、得意なことだけを集中してやって、それを楽しみながら伸ばせばいい。今までの「苦痛と我慢」の学校とは正反対である。産業社会においては人間系が機械に合わせる必要があったので、ある意味「苦痛と我慢」が美徳とされた。しかしそれは本来の人間のあるべき姿ではない。情報社会が到来しAIが実用化することで、200年ぶりに人間性が解放され、自分らしさを発揮できる時代がやってきた。この現象はそう解釈すべきであろう。
(25/05/23)
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