人間復権の時代





AI開発の競争が進み、その業界では毎日のように改良が進んでいる。もうかなりの領域で実用の域に達している。このペースでいけば一年もしないうちに、「正解」がある問いに対しては「AIの方が速いし正しい」ということが常識になるだろう。おまけにコンピュータは人間と違ってつまらないケアレスミスもしない(まあ、人間系の方のインプットミスというのは常に付きまとうが)。

そういう領域は、もはや機械に任せるべきである。正解のあるものは機械に任せて人間系では処理しない。これが情報社会である21世紀の掟となるだろう。こう考えると、近代の学校教育で教えていたテクニックのほとんどの部分が必要なくなる。みんな大嫌いだったドリルも宿題もいらないのだ。教育というのは20世紀までのような技術論ではなく、倫理観や情操面を育てるプロセスに変わる必要がある。

中立的に「正解」が出せるようになれば、屁理屈でロジックを捻じ曲げて我田引水することもなくなる。今のレベルのAIでも、役所の無駄は簡単に暴き出すことができる。もちろんAIは悪知恵に長けた高級官僚のように、自分たちに利益誘導する屁理屈を導き出すこともできる。しかし結論によって自分の分前を変えてもAI自身には何のメリットもないので、既存の官僚組織のようなコジツケはやる意味がなくなる。

超真面目で禁欲的な超秀才のようなものだ。明治時代の「坂の上の雲」のような理想的世界ではないが、武士道精神を叩きこまれた人間がノブリスオブリジェとして行政を司る時代ならそれに近いことが実現できたかもしれない。しかし育ちが悪くても偏差値さえ高ければエリート官僚として出世するようになった20世紀以降の大衆社会では、とても実現できなかった美学だ。

さらにミラーリング監査ではないが、システム的に複数のチェックポイントから相互に監査をかけておけば、人間系に秀才エリートの官僚のような邪な人材がいて、人に気づかれないように自分の懐に入る利権を確保するようなことも起こせなくなる。ある意味最高の電子執事が常にサポートしてくれるようになるのだ。面倒な手間からは一切解放される。これはユートピアの実現にさらに一歩近づく。

これで「正解」の外堀は埋まった。しかし、世の中の問題がこれで全て解決するわけではない。自然科学的な世界はいざ知らず、社会的にはそもそも「正解」がない事象も多く存在するからだ。逆に想定外の正解がなく自分が肚を括って決めなくてはいけないところこそ、人間の出番である。「決める」ことをしなくては前に進めない状況を突破することこそ、人が人たる所以となるのだ。

しかし、考えてみればこの「肚を括って、責任をとって、想った道を進む」ということこそ、起業家精神に富んだファウンダーのアイデンティティーそのものだ。これは「甘え・無責任」でいられる大組織・大企業の成員となることと正反対のモチベーションである。大企業や組織人が21世紀に生き残れないということは、こういう面からも立証することができるのだ。

寄らば大樹の陰でなく、自分の足で立ち、自分の決めた方に向かって道なき道を歩く。これこそが21世紀的な人間のあり方だ。思えば、そもそもこれこそが人間のアイデンティティーだったのではないか。ホモ・エレクトスが出アフリカし、ユーラシア大陸に拡散の始めたモチベーションがまさにこれだった。我々はまさに人類がメタ人類に進化する瞬間を生きていると言ってもいいのだ。



(25/05/30)

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