見たことのない夢を見る力
AIの時代が到来し、秀才と天才の差が人間力における重要なポイントとして問われるようになった。そもそもこの違いは質的なものであって量的なものではないので、「テストの点数」のようにリニアで定量的に捉えられるものではない。あれができる、これができないという違いでしか差をとらえられない。その鍵の一つが「どういう夢を見るか」だ。
もちろん、天才とは今まで誰も「見たことない夢」を見れる人である。これに対してどんな秀才であっても凡人であっても夢は見れるが、その内容は「見たことのある夢」を越えることはできない。「見たことのある夢」とは、自分が経験したことをベースとして発展させたストーリーだったり、映画やTV番組、コミックスなどの既存のコンテンツをなぞったストーリーだったりする夢である。
多くの場合「夢を見た」と言っても、いままでになかったオリジナルのテーマではない場合がほとんどなのだ。この話が難しいのは、そもそも「見たことのない夢」を見れる人間と、見れない人間とがいる点である。この両者の間では絶対に話が噛み合わない。そして「見たことのない夢」を見れる人はあくまでも少数であり、大多数の人にとっては理解し難いものなのだ。
これは世の中に流通している映画やゲームなどにも言え、A4一枚に要約したプロットレベルで言えばほとんど同じものになってしまう作品も非常に多い。基本は一緒でも、肉付けや演出のやり方を違えることで別の作品にしているのだ。もっというと、ヒット作が出るとその二番煎じ的なパクリとして、これを意図的に行うこともしばしば行われている。
かつてのプログラム・ピクチャーの時代などまさにこれで、西部劇や時代劇など、基本は同じ作品が次から次へと作られていた。それでもヒットする作品は出ていたし、それで観客が喜ぶのであればコンテンツビジネスとしては問題ない。御涙頂戴の感動巨編みたいな作品も、王道の「泣かせ方」パターンを踏襲しているものが多いのは間違いない。
そして、世の中の圧倒的多数の人たちが見ている夢はこれと同じで、決して「見たことのない夢」ではない。かつてヒットした作品から共通のプロットを抽出し、それにこれでもかというくらいの波乱万丈の肉付けをしていくというのは、まさにAIの最も得意とするところである。つまり、こういう「夢」はAIでも見れる夢なのだ。だからこそ、ここが人間力の示しどころとなるのだ。
無から有を作り出す「創作」の何たるかは、それが「できる」人同士の間では容易に理解し合える。それは音楽と陶芸というようにジャンルが違っていても、「湧き出てくる」プロセスは共通しているからだ。しかし「湧き出てこない」人にとっては、手品のようなブラックボックスには見えても、その中のプロセスを想像したり理解したりすることはできない。
この落差は永遠に埋め難い。勉強や努力でどうにかなるものではない。そもそも0に何を掛けても0のままなのと同じだ。「見たことのない夢」を見れない人にとっては、それがどういうものなのかを理解することは不可能なのだ。しかし、自分とは違って「見たことのない夢を見れる」人がこの世に存在することだけは理解して欲しいし、それは可能だろう。
突き詰めれば、これは才能を持って生まれた人とそうでない人の違いである。これからの人類社会においては、「持っている」人の才能をどうやって生かしていくかが、社会全体の幸福度を高めてゆく鍵となる。かつて王侯貴族はノブリス・オブリジェとして自らの財宝を社会貢献に使うことで社会に貢献した。これからは才能を持つ人材は、いかにその才能を社会の幸せのために使うかが問われる。
それと同時に、ノブリス・オブリジェを果たした王侯貴族は多数の庶民から尊敬され敬愛されたように、才能を持ちその才能を世の中のために惜しみなく使った人を、社会全体が尊敬し敬愛する必要がある。このような社会を実現するためにも、自分がそのどっち側なのかを自覚し、それに応じたライフパスを選ぶ必要がある。これもまたこれからの教育の役割の一つといえよう。
(25/06/06)
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