教育の転換点
社会的な教育制度の目的とは、社会的に求められる人材をどう効率的に育成するかという点に集約される。そこには、絶対的な指標はない。求められる人材やそのコンピタンスが時と場合により変化する以上、教育制度に求められるべき目的も変化するし、それゆえ教育制度に対する社会的な評価基準も当然変わらなくてはいけないことを意味する。
産業社会においては、それなりの目的と合理性のある教育制度が練り上げられていた。我々のように20世紀に生まれ育った世代にとっては、教育=産業社会に特化した教育システムであった。このシステムにより結果として高度成長が成し遂げられたのだから、それはそれでその時代においては成功だったということができる。
しかし、社会のスキームが変化し、求められる人材のあり方が変わった時には、過去の目的に対してエスタブリッシュされオプティマイズされたシステムは、足枷として働いてしまう。過去のシステムで教育された人間では、新しいスキームにうまく適合できない問題が発生する。教育がウマくハマった人ほどそうなりやすい。
近代的な学校教育制度が出来上がった発端は、産業革命が起こり産業社会が到来したことに求められる。それまでとは違い、工場という大組織で機械を使って行う大規模生産が社会の基本となった以上、機械を扱うとともに組織的な行動が取れるための基本スキルを身につけることが初等教育の目的となった。
その一方で爆発的に高度化した生産力や生産量は、生産・販売の管理や財務など莫大な情報処理を必要としたが、当初はそれを機械でこなすことはできなかった。このため高等教育においては、文系では官僚組織のような高度な事務管理・情報処理を行うための秀才エリート、理系では技術開発を行うエンジニアを養成することが主眼とされた。
特に、すでに完成していた欧米の近代教育システムを、接ぎ木的に社会に「輸入」した日本では、神学以来のアカデミズムのあったヨーロッパとは違い、この近代産業社会に特化した教育制度の部分だけを、追いつき追い越せの「促成栽培」を行いやすいように改変して導入した。このため知識偏重の勉強主義の教育システムが生まれることとなった。
AIが実用化し情報社会が本格的に到来した今、産業社会に最適化した20世紀型の教育システムは必然的にパラダイム・シフトを求められている。しかし、産業社会型の教育システムが2世紀近くに渡って続いていただけに、多くの人々、特に教育に関わる人々には、それと異なる目的意識を持った教育システムを想定することが難しくなっている。
来るべき時代における教育システムはどのようなものだろうか。それにはまず、求められる教育内容を明確にする必要がある。今まで産業社会で人間系がこなしていた領域も、そのかなりの部分がAIのようなコンピュータシステムに「丸投げ」すれば済むようになる。その部分をコツコツこなす人材はいらない。
こうなるとAIに代表される機械系と人間系とでキッチリと役割分担をして、それぞれの得手な分野に特化することが可能になる。この切り分けができることが、情報社会において人間が果たすべき役割を規定する基本である。すなわち社会活動の多くの部分を占める広義の定型処理(ルール化・マニュアル化できるもの)は、AIの領域である。
すなわち人間社会の活動の中で人間がやるべきことは、AIにできないこと、AIが苦手で効率が悪くなってしまうことということになる。である以上、今後の教育とは「蛮勇な決断力がある」といったその人の天賦の才能を見抜き、それを集中的に伸ばして尖ったレーダーチャートの人材を育てることになる。
まさに、今までの教育のあり方、特に近代以降の日本の教育のあり方とは正反対の方向である。それゆえ、現在の教育界の人材にその実践を期待することは難しい。そのシステムが完成するまでにはまだ時間がかかると思うが、私塾のようなものになるのではないか。この理を理解し、スマートにこなせるようにすることが、21世紀的な教育の課題である。
(25/06/13)
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