勝手なエリート意識





一人の発言権は一人分、一票でしかないというのが普通選挙に基づく民主主義の原理だ。従って特権的地位にあるからといって、それで自分の発言を優位にしようという発想は、少なくとも民主主義とは相容れない。現在のリベラル・左翼・アカデミックな人の発言は、ここが歪んでいて民主主義を肯定する人間とはとても思われない。

啓蒙するべき自分達の発言権は、啓蒙されるべき下々の者達よりも大きくてしかるべきだ、というのが彼等の基本的発想にある。選挙結果が自分の考えと一緒なら「選挙は公正だ」というが、自分とは違う結果になると「民意が反映されてない」とうそぶく。彼等は根本的な哲学のところで、一人一票の平等性を否定しているのだ。

もちろん、一人の発言権の大きさに差をつけるやり方も物事を決める政治システムとしては成り立つ。納税額によって一人の持つ票数に差をつける制限選挙も行われていたし、政治で以外でも株主総会での発言権は持っている株数によって変わる。何か客観的な基準があってそれに基づいて発言権が決まるのならばこれはこれで普遍性を持っている。

従って、どのような場合でも普通選挙に基づく民主主義のように「一人一票」が正しいというわけではない。しかし、普通選挙に基づく民主主義を政治システムとして選んでいる国においては、ひとまずはそれに従う必要がある。憲法を改正して制限選挙を持ち込むことも可能だが、それは現状の民主主義のルールに基づいて行う必要がある。

そもそも左翼は、20世紀に登場した共産主義国家がみな独裁政権であったことからもわかるように、そもそも民主主義とは相容れない思想である。そういう意味では、リベラルや左翼、左がかった象牙の塔の人達が実質的に民主主義と敵対してしまうというのは、ある意味むべなるかなである。

歴史的に見てゆくと。エンゲルスやレーニンといった社会主義初期の活動家の意識の中にはすでに「捻じ曲がったエリート意識」が潜んでおり、それがこういう「大衆蔑視」を生み出したことを見逃してはならない。自分勝手な「捻じ曲がったエリート意識」を持ち出す人間は、同じ穴の狢に対して蔑視することにより、自分の特権を正当化しようとする。

というより秀才エリートの意識の中には、「自分たちは違うんだ」という妙な選民意識が常にあり、それが自分達の自信や自慢に繋がっている。単に学校の成績がいいだけなのだが、「自分たちは優秀で、お前らとは違う」と信じ込んでいる。これはエリートの象徴たる高級官僚の行動や意識の中にも頻繁に見ることができる。

気象庁が「開花宣言」や「梅雨入り宣言」など、あたかも自分か気候を決めているかのような驕った態度で発表するところなど、この役人根性の象徴だ。そんな偉そうにいうのなら、「雨を降らせたり、台風を逸らせたりしてみろ」といいたくなるではないか。天気を決めているのはお天道様で気象庁ではないんだぞ。

かくしてエリート意識とは、傲慢な独りよがりなのである。それでも産業社会においては社会的な役割があったから、それなりの処遇を受けてきた。しかし、今や秀才エリートは最もAIによって代替しやすい社会的役割となった。身勝手なエリート意識などもういらない。こういう連中は、もう社会から村八分にすべきだ。



(25/06/27)

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