持てる者、持たざる者






人間の能力=才能×努力。これはいつも言っている、能力の公式だ。このように、才能だけでは能力にはならず、意味がない。才能は、それを顕在化させる不断の努力があってはじめて、具体的な成果をもたらす能力となり花開く。その意味では、才能は前提条件であり、潜在的な可能性を示すものに過ぎない。いわば、能力レースの一次試験というか、予選リーグというべきものとたとえられる。とはいうものの、才能が能力の前提条件である以上、才能がなくてはそもそも話が始まらないのも確かだ。だから、もともと才能がなければ、いくら努力したところで水泡に帰す。すなわち能力で勝負するためには、まずなくてはならないものであることは確かだ。

では才能は何で決まるか。才能は生まれつきのものだ。それがもたらされる要因は遺伝しかない。トンビはタカを生まない。DNA、ミトコンドリアDNA、細胞質、そのどれかは知らないが、少なくとも受精卵が両親から引き継ぐものの中で、才能は規定されている。そう思って子供を見ると、確かに生まれてすぐから明確に個性や性格がある。親や周囲がそれに気付くかどうかという問題はあるが、本人には最初から個性があるのは確かだ。もちろん、それからの経験によって、それが磨かれたり、一段と強調されたりすることはある。だが、生まれたての赤ん坊でも個性差が見出せる以上、個性とはかなりの部分、遺伝的なカタチで生まれながらにして持っているモノということができる。もちろん理論上は「突然変異」ということもある。しかし、生物学的には「突然変異」自体が低い確率である上に、それがポジティブな結果をもたらすことは、それこそ天文学的な数字の事例を集めて、一回あるかないかというレベルである。あえて論じるにたるものではない。

最近とみに話題になっている、日本社会の階級社会化も、けっきょくは才能が親から遺伝するという問題に行き着く。日本の社会も、戦前の軍国主義時代の軍需産業主導の経済成長、戦後の復興、そして高度成長と、経済が発展するたびに社会の流動性が高まり、能力を活かすチャンスも飛躍的に増えた。そしてその後30年以上に渡って、豊かで安定的な社会が長期に渡って続いた。こうなると、才能を持っている人間にとっては、それを発揮するチャンスに出会わない方が難しい。当然隠れた才能の持ち主がでてくる可能性は減った。それとともに家族制度も変わり、自由恋愛により核家族を作る時代となった。これは、より質的に近い人間同士が結婚し、家族を作る確率が高まることを意味する。それは、同質の個性という意味でより「濃い」資質が子供に受け継がれる可能性が高くなている。

それがいいことかどうかは別として、事実として、偏差値の高い学校の学生は、その両親もまた偏差値の高い学校を出ている確率が圧倒的に高い。これは、よく所得と教育費の問題として語られるが、それは違う。偏差値をとる能力に長けた親の子供だから、遺伝的に偏差値をとるのが得意だということに過ぎない。社会の流動性が高いからこそ、類は友を呼ぶ、とばかりに、特性が近しい人達が集まってクラスターを作る。かえって身分制とかが厳しい時代の方が、才能や個性と社会的クラスターの関連性が低かったので、いろいろな階層から、色々な人材が生まれてきた。しかし、いまや才能別、個性別の社会的クラスターが階層の基本になっている。だから特定の才能を持った人間は、特定のクラスターに圧倒的に高い確率で存在する。

そういう時代では、世襲は意味がある。もちろん、才能のある親の子なら、必ず才能があるということはありえない。親が才能があっても、子はバカ息子ということもある。また、その子供に才能があったからといって、努力して能力を発揮できるかどうかもわからない。しかし、第三者的な人間を持ってきて、その中から才能のある人間を探すよりは、才能のある両親から生まれた人間の中から探した方が、才能を持った人間を発見する可能性は高いだろう。一般公募で集めた集団をベースとするより、才能のある親から生まれた子を集めて努力の英才教育をした方が、ずっと人生に成功する人材を育てる確率は高いだろう。そう考えれば、いい人間をコネで取った方が、不特定多数に面接や試験をして採用するよりも、ずっと費用対効果が高いということができるだろう。

多様化、個性化といったところで、才能のない人間が好き勝手にやるのは意味がない。それは意味のないノイズを増やすだけであり、人類史的に価値のあるものに出会う機会を相対的に狭めることになる。まさに「エントロピーの増大」だ。才能のある人間の作品は、人間社会のエントロピーを減少させる一方、才能のない人間の作品は、人間社会のエントロピーを増大させる。そしてケイオスへまっしぐら。そこに待っているのは、人間社会の滅亡だけだ。ヴィジョンを持ち、スケールの大きい判断ができる人間にも、それができない人間にも、同じ政治的発言権を分け与える「民主主義」が、人類史的な意味では無意味で、無価値、人類の滅亡を早めるものであるのと全く同じことだ。

さて、今や能力ディバイドの時代だ。能力の有無が人生を決める。プロテスタンティズムの予定説ではないが、生まれながらにして持ち得る能力は決まっているがゆえに、送るべき人生も決まっている。それをうけとめ、それにさからわず、自分の運命をもっとも活かす人生を送ることが大事。決まっている人生をあえてねじ曲げようと思っても、満たされない不幸が待っているだけ。与えられたものが大きければ、それを活かす人生を送り、与えられたものが小さくても、それを大事にする人生を送れば、それがいい結果を生む。人間の幸せって、もともとそういうことではないのか。これもまた、ディジタルの時代になって、人間性の原点に起ち戻りつつある現象の一環と呼ぶべきだろうか。


(00/05/05)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる