人文科学の復権が必要だ
正解があるものについてはAIが圧倒的に強い。まあある意味問題集の正解を見れる立場にあるのだから、これはその仕組みからして当然といえば当然だ。それだけではない。過去の知の遺産の積み上げの中から演繹的に正解を導き出せる種類の構造を持った学問については、インターネット上とは言わずコンピュータが扱いうる知識をすべて利用できるAIには、もはや生身の人間では太刀打ちできない。
理学・工学の分野では、これからAIが次々とスゴい発明や発見をしていくことだろう。もちろん理系の学問といえども、人間が従来の学説とは根本的に次元が違う仮説を出し、その妥当性をAIに検証させるというような形で人間とAIのコラボレーションで進められる研究領域も残るので、一切人間の学者がいらなくなるわけではないが、もっと少数でもっと深い研究が進むようになるだろう。
その一方で社会的な判断など、リニアな軸だけでは評価ができない「正解がない」問題も多く残っている。このような「正解がないもの」に対し、自分の責任で道標を出すことは依然人間の役割である。いや、そこに人間の判断が集中する分、その役割は重いものとなったということができるだろう。肚を括った選択には「正解」はない。あるのはただその道を進む勇気の有無だけだ。
であるなら、これはまさに「精神」が問われている問題であり、哲学の課題である。ルネッサンス以降、それまでの神学と一体化した哲学から、独立した個人としての人間の本質を解き明かす近世哲学へと進化した。まさに産業革命前夜の出来事であり、そこで培われた人間観がそれ以降の産業社会における人間観の基盤となったことはいうまでもない。
そういう意味では、新たな情報社会における人間観を導き出す哲学が今求められているとも言える。これはこれからの時代の人類社会の捉え方を創造するものであり、本格的な情報社会のスタート地点としての21世紀におけるは極めて重要な作業である。それは中世と近代の人間観の違いぐらい大きな変化を伴うものとなるであろう。それだけに今取り組むことが必要なのだ。
そうだとするならば、必要なのは人文科学の復権である。現状の人文科学は、象牙の塔の家元制度になってしまったがゆえに学問でさえなくなり、堕落し切った社会的に無用な存在となっている。しかし、それは人文科学という学問自体が無用になったことを意味しない。真理を探求する学問の道から離れ、自分達の権威を維持・強化するシステムにしてしまった人達が悪いのだ。
情報社会の人間観自体が正解を追い求めるような産業社会のそれではなく、まさに「どうすべきだ」と自ら決めなくてはならないものであるという、極めてメタな問題の構造になっている。そういう意味では、努力と勉強からでは出てこないのが哲学的な「答え」であり、それを打ち出すことがこれからの人文科学の役割として求められている。
このプロセスはある意味、フィクションではあるものの誰をもに共感を産みだす文学のようなものである。もっとも文学自体が人文科学の主要な要素である。ライターはAIも得意とするところであるが、ストーリーテラーとしての「文豪」は実は現状のAIは苦手なところである。その意味で情報社会においては自然科学は機械任せで衰退するが、人文科学こそ人間のアイデンティティーとして脚光を浴びるであろう。
(25/07/11)
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