情報社会に「凡人」なし





情報社会においては「コンピュータを使う人」と「コンピュータに使われる人」が生まれるというのは、ぼくらマイコン革命第一世代がパソコンに初めて接して以来思い続けてきたことだ。思えば半世紀に渡って「未来予測」として主張し続けてきた。そしてそれは、AIの実用化と共にマジに現実となるところまできた。これこそが情報社会化の本質である。

ある意味、生きているうちにこの革命が見られたのは幸せと言えるだろう。しかし「コンピュータの上と下」とは言っても、これはコンピュータが情報リテラシーの違いから人類を二つに分けてしまったということではない。もちろんリニアな価値観軸の元で上だ下だとランキングをするものでもない。ここでもすでに何度も語っているが、あくまでも立ち位置の違いだけである。

元々、人間には自分の理想があり常にその実現を求めて空を飛んでゆこうとする「創作派」と、勉強と努力で地面を這ってでも自分の居場所をきっちり掴もうという「努力派」と二つのタイプがあった。ここ200年ばかりの産業社会においては、産業革命以降爆発的に拡大した生産力にともなう情報処理を人海戦術で処理する必要があったため、「努力派」が重用されたというだけのことである。

もちろん今までの産業社会でにおいても、それぞれのトップレベルの人は「クリエイター」になったり「秀才エリート」になったりしていたのだが、大多数の凡人はそれと意識しないまま、「努力派」的な生き方を選ばされる傾向が強かった。そもそも近代における学校制度や教育システム自体が、そういう人間を大量生産する方向で機能していたことが大きい。

そういう人材が担当していた手間のかかる面倒なことを、AIが全部こなせるようになったのが情報社会である。そのおかげで、何も考えずに平均的に勉強して「社会人」なるものになっていた凡人だった人も、自分に無意識ではいられなくなり、「創作派」なのか「努力派」なのか、このどちらに属するのか意識的に区分けせざるを得なくなったということである。

単純な話だが、「創作派」であればコンピュータを使う立場になればいいし、「努力派」であればコンピュータに使われる立場になればいい。それはあくまでも適性と自分の好みの問題であり、上下とか善悪とか二項対立的な区分ではない。これがわかっていないと、21世紀の情報社会では生きてゆけない。自分の居心地のいい生き方を選べるというだけである。

もはや社会的にσの内側は圧倒的に機械が強い時代となる。σの内側は完全に機械任せになって人間が手をかける世界ではなくなる。当然のことだが、それまでσの内側の頂点に君臨していた秀才エリートは行き場を失う。それは、彼等が産業社会特有のニーズに最適化した存在だったからだ。しかし、だからこそそれと情報社会が求める人間の在り方とは繋がらない。

AIから見れば、人間は特異点ばかりの存在である。アイデンティティーがσの外側にしかいない存在である。人の好みは本音では千差万別・百人百様であるという事実が、それを語っている。Aiは秀才エリートと同じく、正解を出すかそれらしい嘘をつくかは上手だが、はちゃめちゃで面白いなことをやるのは苦手である。そこで棲み分けができるわけだ。

ここが大事なのだが、産業社会的な価値観からすればマネタイズができず評価されない能力であっても、機械にはできないことができるという点においては、情報社会においてはアイデンティティーたり得るのだ。まずこここそが人間の人間たる証であることを理解することが、情報社会の歩き方の第一歩である。これさえ飲み込めれば、もう恐いことはない。

そういう意味では「コンピュータに使われる」とはいっても、コンピュータの奴隷になるのではなく、コンピュータができないこと、苦手なことを任されるという方が正しいだろう。その棲み分けを上手にこなす鍵こそ、自分が得意なこと好きなことを自覚することである。そういう意味では、情報社会とは「好きなことだけやれば良く、苦手なこと・嫌いなことは機械に任せられる」社会なのだ。



(25/08/08)

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