自分の枠組みで相手を捉える人
こと日本人においては、相手が敵でも味方でも、自分と同じ思考形態で物事を捉えて判断しているという見方をする人がことのほか多い。というか、そういう発想をする人が過半数であるといっていいだろう。それゆえ思考の結果として、自分と同じ結論になった人が味方、自分と違う結論になった人が敵というリニアな一軸の二元論に陥りがちである。
単一民族論のような「幻想の均質論」に取りつかれているからこそこうなる。そもそも人々の間にはいろいろな価値観軸が存在し、それは互いに独立しているからこそ、その組み合わせによってそれぞれの人の考え方が決まってくる。従ってある部分では共鳴できても、別の部分ではまったく相容れないということもしばしば起こっている。
こういう多次元的な価値観を理解できない単細胞な脳の構造をしている人は、一つの軸に単純化した二元論でしか相手を捉えられない。結果的に敵か味方かという区別しかできなくなる。リベラルや左翼の人達がこの典型である。従って彼等は「戦術的にはこの部分では組める相手だ」というような、是々非々的な対応が極めて苦手である。
この点、本当に多元的なモノの見方ができる人は、そもそも自分と相手は思考形態からしてどう違っているのか、というところから入って相手を捉えようとする。このため、客観的に相手との違いとその理由を捉えることができる。だが、これをやるには自分自身をも客観的に見ることができるような第三者的な視点を持っていることが前提となる。
しかしこれは極めて難しい。選手の視点と審判の視点を同時に持ちながらプレーするような感じだ。もちろんできる人はできるし、どの分野でもあるレベルを超えてスゴい人はこういう自分を空中から見つめているような「もう一つの目」を持っていることが多い。だが、多くの一般人にとっては試したことすらないような捉え方といえる。
そうである以上、多くの場合相手も自分と同じ立脚点に立ち、その上で違いがあるんだという発想から抜け出られないのもむべなるかなである。自分が陰謀を企む人は相手も陰謀を企んでいると思うし、自分がダブルスタンダードな人は相手もダブルスタンダードなんだと思う。そしてそれを前提に行動する。あたかも相手は結論が違うだけで、発想法は瓜二つだと思っているかのように。
左翼・リベラルの人と議論がかみ合わないのは、彼等の発想自体が世の中全体ではかなり浮いている「特異点」なのにもかかわらず、世の中のみんなが自分と同じような行動様式・発想様式を持っていると思ってしまい、そこから抜け出せないからだ。そしてこれで突き進めば突き進むほど、どんどん社会の中で「異端」なところへと自らを追いやってしまうことになる。
答えがない問題でも「正解」を求めてしまいがちなのもまた、この「幻想の均質論」にそのルーツがある。軸が一つしか考えられないので、その中で「正しい」方を選んでいれば安心という心理が働くからだ。しかし世の中はそんなに単純なものではなく、特に海外においてはそもそも「幻想の均質論」自体が成り立たない。日本企業が海外で失敗することが多かったのも、ここに起因する。
そもそも秀才エリートを集めた一流メーカーが、財務や法務はそつなくこなせても、マーケティングとなると極めて不得意な劣等生となってしまうのもこのせいだ。日本の大組織が持つ構造的弱さも、多元的価値観を真に理解し受け入れることができないところにある。他人を自分と同類ととらえてしまうことこそ、日本の弱みであり宿痾である。
これも、21世紀の情報社会化という流れの中で、大きく変わってゆくだろう。日本人にも多元的な価値観を持っている人はいる。ただそういう人は秀才エリートにはなり辛く(そりゃそうだ、社会的評価より自分の意思を大切にするわけだから)、産業社会においては組織で重用されなかったというだけである。大企業の時代自体が終わりになれば、自動的に多元的な価値観を持った人材が活躍するようになるのだ。
(25/08/22)
(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる