違いを受け入れる社会
もはやバブル崩壊後の安定成長になってから育った世代が、労働人口として社会の主流になっている。社会人として昭和を生きた経験のある世代、すなわちバブルを体験した世代はもはや還暦以上。会社にいてもシニア社員や定年延長で、大幅に給料を減額され第一線の戦力とは見做されていない。それとともに、社会の基準となる価値観自体が大きく変化したことに気付く必要がある。
安定成長の日常の中で育ってきた彼等は、「無理しても横並びであることを」を求めない。これがそれ以前の高度成長を知った世代との一番の違いである。自分が自分なりに幸せを感じられれば、それ以上他人との比較をしようともしないし、ましてやどちらが上だ下だと格付けしようとはしない。まさに自然流、あるがままでいるのが幸せだのだ。
子供の頃の貧しさのトラウマがありそこからの脱却を常にもとめた高度成長世代に対し、子供の頃からそこそこ満たされて育ったことにより、この違いが生じた。そこにはある意味高度成長をもたらしたエネルギー源といえる「見栄」も「背伸び」もない。キャズムが生じてイノベーター理論が通じなくなった原因の一つが、少なくとも日本においてはここにある。
社会的にどう評価されるかより、自分がどう納得できるかの方が大きい。この「ポストキャズム社会」を特徴づける世代間の相違を「新しい断絶」と名付けよう。この「新しい断絶」がわからないと、現在社会のマジョリティーとなった世代のニーズを汲み取ることはできない。この数年、旧来の選挙戦略が通用しなくなった理由もここにある。
まだ戦後の経済混乱が残る貧しい時代に生まれ、奇跡ともいえる高度成長期の中で育った団塊世代の人達は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」よろしく「バスに乗り遅れるな」とばかりに見栄と背伸びを繰り返してきた。このような意識は、曲がりなりにも高度成長が続いていた昭和末期のバブル期までは何らかの形で受け継がれてきた。
とはいえ、80年代においては、当時「新人類」と呼ばれた高度成長以降に育った昭和30年代生まれの世代も労働人口の中に増えつつあった。まさにこの「新人類」という呼び方が示しているように、明らかにそれまでの貧しさを知っている世代とは異なる価値観をもって社会人となった最初の世代だったと認識されていたことがわかる。
いまやその「新人類」世代も定年を過ぎリタイアしてシニア化している。すなわち頭数はさておき、社会を支えているのは全て安定社会になってからの世代しかいない。彼等は「違うのは当たり前」であり、無理に同化したり合わせたりしない。指図もされないし、自分がやりたいようにやる。とはいえ、結果的に選んだものが同じようなものになり、それが流行になるということはありうる。
それが、ポストキャズム時代の特徴である「横から目線の流行」である。日本社会に特徴的な「過剰な同化圧力」は誰かが力により押し付けたものではなく、「見栄」や「背伸び」のために周りを意識しすぎることから生まれてきたものである。そういう意味では、江戸時代以来の過剰な横並び意識から脱して、世界に通じるグローバルスタンダードに近付いてきたということもできるだろう。
(25/08/29)
(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる