「暴力反対」は正しいのか






最近始まったことではないが、まったりと平和ボケの日本では、体罰反対の声が大きい。特にボケきった「自称進歩派」で「自称文化人」な人ほどそういう主張をする。虐待された子は、親になってから子を虐待するということらしい。要は、子供が「暴力主義」的になることに危惧の念を抱いている人達が、杞憂の元は根こそぎ絶ちたいとばかりに、その芽となり得るものは全て摘みとってしまおうとしている行動だ。弱いものイジメはいけません。だから、弱いものイジメをするようなマインドを生み出すものは禁止します。ということだ。

しかし、力の強い弱いは、あらゆる生物を通した生存競争の基本ではないか。弱いものが負け、強いものが勝つ。それがあるから生態系のエントロピーが増大せず、あるレベルでの均衡を保っている。だからどんな生き物でも生存競争をする。それは種の間はもちろん、同種の個体間でも常に繰り広げられる、生命の基本だ。動物のみならず、植物だって、細菌だって、競争をしている。それがあるから進化があるし、変化がある。弱いものが強いものに負けるのは、自然の摂理そのものだ。これをたかが人間の分際で否定できると考えるのは、とんだ思い上がりだ。

人間とて生き物である。自分達の種や自分という個体を守るため、常に闘わなくていはいけない。そのためには力を持たなくてはならない。力を鍛えなくてはならない。それを怠ることは、即、存亡の危機を意味する。人間だけがのほほんと暴力反対などとのんきなことをいっていては、人類の滅亡を早めるだけだ。まあ、それはそれで一つの立派な主張だとは思うが。このように、闘うこと自体を否定してしまうことは、どう考えてもおかしい。それは自分の尊厳を否定することでもある。確かに闘うことにおいては暴力は基本だ。しかし、そのすべてではない。暴力以外の闘い方もいくらでもある。

すなわち、闘うか闘わないかという軸と、暴力を使うか使わないかという軸は、互いに独立。基本的に別のものだ。自分の存在を脅かすものに対しては、命を掛けて闘うかどうかというのは、戦略上の問題。いわば政治的判断だ。そして闘うときに暴力をつかうかどうかは、あくまでも戦術上の問題。いわば闘い方の作戦上の判断だ。根本的にレベルが違う。さらにいえば、暴力を使うにしても、暴力だけを使うのか、暴力を使うことも辞さないが他の手段も駆使して駆け引きを重視するか、という選択もある。この違いがわからないと、非暴力主義の本当の意味はわからない。

非暴力主義は、暴力反対ではない。ましてや闘いの否定ではない。武器として暴力ではなく、もっと別の方法を用いてあいてを撃破しようというのが、ほんとうの非暴力主義だ。そっちが殴りたいなのなら、いくらでも殴りなさい。しかし、それは痛くも痒くもない。何の影響ももたらさない、エネルギーのムダだよ。というのがその真骨頂。暴力以外の武器で闘い、相手を撃破し、自陣営の勝利に導く。これが本当の非暴力主義だ。本当の非暴力主義者は、「非暴力」という高度な武器で相手を撃破する、闘いに長けた、非常に巧みな戦術家だ。

このように、非暴力主義は、本当に強くて勇気がなくてはできない。だから強いのだ。そう考えると、暴力反対の人は、どちらかというと自分が脅しや暴力に弱いので、恐がっているだけということがわかる。自分が恐いもんで「暴力はいけない」というのでは、何ら説得力がない。自分の苦手なワザは相手に使ってくれるな、と最初からお願いしたのでは、フェアな闘いは不可能だ。そんなハンディー戦は、最初から負けを認めているのと同じだし、正当な闘いとはなりえない。そんな連中は、あっさりやられて、敗退するのが当然な存在なのに、甘えているだけではないか。

生きてゆくこと、それは全て闘いだ。闘うこと自体を否定したり、封じたりすることは無意味だ。それは自己存在の否定と同じだからだ。それぞれの闘いの得意技を磨く。あるものは暴力だろうし、あるものは「非暴力」というなの武器だろうし、あるものは政治力だろうし、それはいろいろあっていい。鍛え抜いたそれぞれのワザをもって、異種格闘技戦を行う。それが生きることではないか。そしてその闘いを勝ち抜いてはじめて、自分の存在意義が与えられる。

負け犬ではダメだ。闘うことを恐がってはダメだ。そのためには、暴力でもなんでも全て「アリ」にして、その中でハングリーに勝ち残っていくファイティングスピリットがなくてはダメなのだ。相手と、そして自分と正面きって闘い、常に勝利を得ることなく、自分が新たな地平に昇ることはできない。これは、自分が向上する、唯一絶対の方程式だ。闘わないものに未来はない。

そして、自分が使うかどうかはさておき、暴力を恐れるもの、否定するものには勝ち目はない。だから今の日本のような喧嘩をしない子供たちには、未来はない。良い暴力、良い体罰というものは必ずや存在する。それは絶対的に正しいものであり、何人も否定や拒否できるものではない。そう考えるとき、果して今の日本のような、こういう教育でいいのだろうかという疑問は、誰もが持って当然のものだろう。

(00/05/12)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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