耳年増
インターネットの普及とともにはびこり出したものの代表が、実物を見たこともなく、実態も知らないのに、関係する知識だけは溢れるほど溜め込んでいる「耳年増」がある。SNS上の書き込みや映像で偉そうなことをほざいているのは、大体こういう連中だ。その道の専門家からみれば「何をアホなこと」とすぐにバレてしまうのだが、これに騙される無知の涙も多いので、どんどん耳年増は増殖する。
もともと日本人には、その公教育の体系の影響から偏差値主義というか「正解の知識」を偏重し、体験よりも勉強を重視する人が多い。実際に見聞きし経験したノウハウよりも、机上で書籍から得た知識の方を重視する。こういう人達は、ネット上から無料でいくらでも情報を入手できるようになった分、有象無象の情報を吸収して本質がわかった気になってしまっている。
そもそもインターネットにおいては誰でも情報をアップロードできる分、故意かか過失かを問わずフェイク情報に溢れている。数量的にはフェイクの方が多いと言ってもいいだろう。フェイクの中から真実を読み取るコンピタンスが必要とされる時代だが、これこそ実体験の多さがモノを言う。鑑定団の鑑定などは典型的な例だろう。いくら勉強して知識をつけても、真贋合わせて数多く見てきた人には絶対にかなわない。
いや本物を見た体験がないからこそ、膨大な情報、それも多くのフェイクを含む情報に接するだけで全てを理解した気になってしまうといったほうがいいだろう。ここに落とし穴がある。入口を間違えて「勉強」から入ってきた人にとっては、教科書や論文のように複数のチェックを受けてお墨付きをもらった情報ならいざ知らず、真贋合わせた雑多な情報に接したときには地獄しか待っていないのだ。
もっとも楽器にしろオーディオにしろ理屈が伴いやすいホビーの世界では、昔のように雑誌と書籍しかなかった頃から、こういう珍説を語る「先生」も多く、それを真に受けてありがたがる「マニア」も多かった。これも耳が良ければ、一度聴いてみれば本当か嘘かすぐにわかる話だ。しかし、それを聴き分ける耳は誰もが持っているわけではない。だからだまされるヤツが蔓延する。ここに落とし穴があるのだ。
それこそ「青い空、白い雲」問題である。空の色は多種多様なスペクトラムでありとあらゆる色に変化する。それを味わうためには、見たままを感じ取れる感性が必要だ。その感性があれば、空の色だけで何千万色という、安価なディジタルディスプレイでは表現しきれないような豊かな色の変化を感じ取ることができる。雲の色とて同じだ。これこそが人間の感性の本質だ。
生のシーンを見るのと、写真に撮ったシーンを見るのとで、全然感じが違ってしまうということはよくある。特にデジカメだと顕著だ。音楽でも生の音とどんなにハイファイでも録音した音は全く違うものというのは、自分が音楽を演奏する人ならばよくわかっていると思う。これをあるがままに感じ取れるかどうかというのが、情報社会における人間としての力の示しどころである。
情報社会においては、知識から入って「空は青い」「雲は白い」としか見えなくなっている人は、もうそれで人間としては終わりということになる。これはタマゴとニワトリの関係だ。感性が無いから知識に行くのか、知識が多いから感覚が鈍るのか。それは因果関係ではなく、車の両輪の関係だ。もともと感覚の鈍い人は、知識かからしかものを見れなくなることにより、ますます退化する。
逆に機械はあるがままの通りにスペクトラムを把握し記録する。写真のシーンが生と雰囲気が変わって感じるのは、この「人間バイアス」なしの画像を見せてくれるからだ。それ以上の何かが見えている人は、画像でも映像でも、ディジタルを活用してスゴい表現を創り出すだろう。そしてそれを感じ取れない人間は、やはりここでも「コンピュータに使われる存在」とならざるを得ないのだ。
(25/09/26)
(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる