AI時代に形式知は無意味





形式知が重視されたのは、組織が中心になった産業社会の特徴である。規格化することでスケールメリットを追求するようになった産業社会においては、その生産力の高まりと比例して大規模組織による大量生産・大量販売を追求することで、収益の極大化を図るようになった。そのためにはマニュファクチャ時代の一子相伝的な暗黙知では対応することができず、形式知化してそれを教育することでレベルの揃った職業人を多数集めることが喫緊の課題となった。

これに対応する形で、近代教育システムが構築され、一定の理解力と対応力をもった「職業人」が量産されるようになる。それにより組織は、教育を受けた職業人を受け入れれば即戦力として使えるような体制を整えておきさえすれば、速やかに業容を拡大できるようになった。これが最初に花開いたのが、20世紀に入ってからローリング20'sまでのアメリカである。第一次大戦による好景気という後押しもあったが、これによりアメリカは世界経済の中心となれた。

それ以来、組織とそれを動かすソフトウェアとしての形式知は、20世紀経済の支柱となってきた。社会とは組織と形式知により成り立っているというのは、少なくとも20世紀の経済学や経営学では誰も疑うことのない公理となっていた。形式知化することは「良いこと」であり、それにより効率が高まり収益性が高まる。それは少なくとも産業社会が続いている間は続いていたし、企業経営や組織運営においても期待した通りの効果が上がっていた。

形式知の世界こそAIの独壇場である。人間がいくら形式知を学んでも、それを100%守って業務を遂行することは不可能である。一部のボケ老人はさておき、道交法を熟知している人同士でも一瞬のヒヤリハットで交通事故が起こってしまうのがそれを示している。完璧にマニュアル化しても、一定の確率で失敗したり勘違いを起こしたりというミスを犯すのが人間系の特徴である。一定確率でミスが起こるのを前提にしておかないと、人間系のシステムはウマく動いてくれない。

それは人間系とシステム系が接するところでしばしば露見する。コンピュータシステム側のセキュリティーは技術の発展とともにいくらでもレベルアップが可能だ。マニアックなハッカーは、それを打ち破るのが楽しいかもしれないが、産業スパイなら脆弱な人間系を狙う。いかにコンピュータのセキュリティーを厳しくしても、結局それを使う人間を誑し込むことで容易にハックできてしまうのと同じである。

人間系と形式知というのは実は相性が悪いのだ。マニュアル化しても人間系はその通りできない。これはその通りできるシステム系に任せるべきだ。形式知かできる作業は全てAIに任せてしまうのが筋だし、そのための形式知化だったはずだ。製造業における「職人芸」が、完璧な完成品をNCデータ化できた時点で機械でこなせるようになったように、ホワイトカラー組織における形式知化できる作業は早晩コンピュータだけで行われるようになるだろう。

その時点では、もはや人間が形式知を学び取る意味はなくなってしまったといっていいだろう。しかし人間系の中には、どこまで行っても形式知化できない「知」が存在する。思いついたその人にしか理解できず、完全な言語化は不可能な知的生産物やそのプロセスは、暗黙知のままその人の脳の中にある以外にしない存在し得ない。これこそが人間の果たすべき役割であり、産業革命以降に求められた「機械システムを補完する人間」が徒花なのだ。情報社会においては暗黙知を持っている人間ほど強みになる。

自分の経験やノウハウから、暗黙知を生み出してひたすら自分の中に蓄積することができる人は、AI時代には極めて立場が有利になる。少なくとも自分のアタマの中身はオンラインでつながっているわけではないので、ネットワーク上のAIが束になってもアクセスすることはできない。それをオープン化しない限り、自分の強みとして持っていることができる。これこそがAIが実用化された情報社会における「知」のあり方である。

では、独自の暗黙知を持ち得ない人はどうしたらいいのか。それはこのところの共通の結論だ。「コンピュータに指示されて使われる人間」になればいい。それでそこそこの給料がもらえれば、そもそもモノを考えるのが苦手な人間は最高に幸せではないか。情報社会とは、人間が無駄な努力とか我慢をしなくていい時代になる。これこそ、ヴィジョナリストとしての哲学者マルクスが予言していた理想の未来社会ではないか。恐がることはない。輝く未来を受け入れよう。



(25/10/03)

(c)2025 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる