職人魂
職人というのは、基本的にその技術の限りを尽くして、施主の要望を100%叶える仕事をするのがその本分である。もちろん職人の側にもその経験から「こうしたほうがいいのではないか」とか「これは違うんじゃないか」とかいうアイディアは湧くこともあるだろうが、それを勝手に取り入れて作るのでは施主は怒ってしまうだろう。
従って、素人が職人に直接発注すると、とんでもないものが仕上がってくることも多い。使いにくいだろうなと思っても、言われた通りに作り、仕上げだけは最高にする。これが職人の本懐である。意味不明の看板とか、トマソン物件のような無用な塀とか、言われればその通り作るのである。
この点がディレクターと違うところだ。ディレクターはある種専門領域のコンサル営業的な機能も持っているので、そもそもの発注者とのインタラクティブなやり取りの中から、より費用対効果の優れたものにブラッシュアップしてゆき、その完成形を職人達に対して発注し進行管理を行なってゆく。
アートディレクターとデザイナーの両者を一人でこなすことは可能だし、個人デザイン事務所のように実際そういうスタイルで作業する人もいる。しかしこの両者はコンピタンス的には別のものであり、一人で両方をこなしているというのはいわば「二刀流」であり、誰にとってもそれが効率いい作業法とは言えない。
さて最近では画像・映像の生成AIの技術が進み、まさに職人芸をみせつけるような作業をこなせるレベルの領域も増えてきた。いわば電子職人である。NC工作機械が製造業のベテラン職人の域に達したのと同様、この分野でもある意味人間以上の精度で機械が仕事をこなせるようになってきたといえるだろう。
こういう生成AIのプロンプトに、既存のキャラクタや既存のコンテンツの名称をインプットすれば、あたかも本物そっくりの画像や映像が生成されてくる。これをもって、AI学習に既存のコンテンツを使うなと主張する人がいる。だがそれは責任のありかを捉え違えている。生成AIは職人なので、プロンプトで指示された通りのことしかやらない。
既存のキャラクタや既存のコンテンツの名称をプロンプトに入れた人間がいるから「贋作」がでてきたのであり、既存の知的財産権を侵害したのは、明らかにプロンプトにそれを入れた人間である。少なくとも現状レベルの学習に基づく生成AIであれば、全く異なる要求をしたプロンプトに対して自分の意思で勝手に「贋作」をアウトプットすることはない。
絵画や工芸品の修復職人に対して、博物館が「展示用レプリカ」の製作を依頼することはよくある。しかし、その技術は即「超精密な贋作」作りにも応用できる。邪な考えを持った古物商が、その職人にレプリカを依頼し、それをホンモノとして売ってしまったら大贋作事件になるだろう。だがその可能性は充分にある。
しかしこの場合詐欺事件になったとしても、悪いのは職人ではない。悪者は「贋作作り」を発注した古物商だし、責任があるのも古物商だ。職人とはそういうものであり、それはまた電子職人たるAIも同じである。「毒にも薬にもなる」という言葉があるが、鉄人28号ではないが、技術は使い手により善にも悪にもなるものなのだ。
さらにいうと「著作物の私的利用」は法律上も許容範囲である。だから美術でも音楽でも技術習得のために模写することは一般的に行われている。そうである以上、AIが技術を磨くために既存の著作物を学ぶことだけが否定されるのは全く矛盾する。技術を育てるためには、過去の作品の模写は最も効率の良い方法の一つである。
これも喧しい議論にはなっているが、結局は「創作とは何か」を知らない者同士の空虚な議論ということである。本当のアーティストやクリエイターは、そもそも生成AIに既存コンテンツのパクりをさせたりはしない。自分表現したい作品を制作する上でのアシスタントとして使うし、そういう指示をプロンプトに入れるのだ。そこからはパクりは出てこない。結局は使う人間の問題である。
(25/10/10)
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