「社会学」の終焉





この10年程度で「社会学者」の奇行が目立つようになった。特にコロナ以降、左翼系の社会学者の社会通念から外れたヒステリックな発言が顕著になり、SNS上などで批判を浴びるとともに、社会学のステータスを下げる「自爆テロ」と化している。それなりの学歴を持ち、それなりのアカデミックな地位を持つ人間の発言とは思えない思慮の無さは、人間としての品格さえ疑わせるほどであり、なにか必死に焦ってもがいているかのようである。

それもそのはず、21世紀になり「社会学」という学問自体が賞味期限を過ぎて、社会的な存在意義を失ってしまったからだ。これは社会学の成り立ちを知っている人ならばすぐに理解できることである。自分達が無用な存在となり、今まで築き上げてきたステータスや、それを得るために行ってきた勉強や努力がサンクコスト化していることに気付いてしまったからこそ、全力で抵抗しているのだ。しかし足掻いたところで、所詮時代の流れには逆らえない。

そもそも社会学は産業社会とそれがもたらした大衆社会と不可分の関係にある。産業革命後1世紀を経て、20世紀の声が聞こえるようになると、次々と生み出された新発見・新発明により生産力の拡大は一層進展し、富の分配が庶民層にまで及ぶようになる。指導者がいなくても一定の方向にトレンドが生まれるという大衆の意識や行動は、それまでの階級社会で支配層だった貴族層や富裕市民層には理解し得ないものであり、恐怖の対象であった。

このため、大衆社会の行動原理を探る研究が19世紀末頃から西欧においてはじまり出した。これを20世紀初頭に体系化して学問としてまとめたのが「社会学の父」ジンメルであり、大衆社会のメカニズムを分析する学問としてここに社会学が生まれた。そして21世紀に入り、大衆社会の基盤たる産業社会自体が終焉し、情報社会の時代となった。その主たる研究対象そのものが過去のものとなってしまった以上、社会学もまた過去のものとならざるを得ない。

これはあくまでも産業社会をベースとした大衆社会を研究対象とする20世紀的な「社会学」が存在意義を失ったというだけのことだ。情報社会における人間の意識や行動を分析・研究する学問は必要だし、それを極めていくことはこれからの未来を考えてゆく上では極めて意味が深い。いわば21世紀的な社会学である。しかしそれは産業社会における大衆社会を対象とした20世紀的な社会学とは、対象も手法も全く異なるものとならざるを得ない。

21世紀型の情報社会においては、機械と人間との共生の中で社会が形作られるのだから、もはや人間集団としての社会を扱うものではない。そういう意味では社会学と呼べるものではないかもしれない。かなり学際的なものとならざるを得ず、既存の人文科学の範疇からは出てこないだろう。いつも言っているように、情報社会では、コンピュータを中心に、コンピュータを使う人間とコンピュータに使われる人間が対峙することで社会が構成される。

それは20世紀初頭に、見たこともなかった「大衆社会」と人類はどう折り合いをつけてゆくのがを考えるために「社会学」が生まれた状況と瓜二つ。今までの常識が通用しなくなる「コンピュータと人間が共生する社会」をどう捉え、その中をどう渡っていけばいいのかを考える学問を創り出すことは喫緊の課題である。すでにこの十数年、今までの産業社会型の常識では解決できない社会問題が次々と現れている。時代の流れを否定したり見て見ぬふりをするのでは済まされない。

いや非常にメタな議論になるが、大衆社会を分析する社会学が破綻するプロセスを分析し把握するためには、この情報社会を対象とした「21世紀型社会学」の手法を使うことが必須である。いわば、すでに誕生している「新しい社会形態」を捉える手法がまだ確立していないからこそ、「20世紀型社会学」が成仏できず、その亡霊がそこここを徘徊してしまっているのだ。一刻も早く「コンピュータと人間が共生する社会」を直視しあるがままに把握する体系を築くことが必要なのだ。



(25/10/17)

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