美学と俗物






どうも最近、世の中に大物がいない。みんな、俗物ばかりになってしまった感がある。リーダーシップをとるものが、下々の顔色を気にしすぎるのではないが。民主主義を標榜することは自由だが、大衆に迎合しすぎるのはロクなことがない。大衆の意見にしたがって正しい選択ができるわけがない。正しい選択は、判断を下す人間として才能を与えられた人間にしかできない。大衆の意見を気にしたら、人類にとって正しい判断などできるわけがない。そういうリーダーでは、いかに偉そうなことを言っても、オーラやカリスマ性がない。それどころか、リーダーにとっていちばん大事な人品が、どんどん下品になる。

そういう意味では、森首相や石原都知事の発言が、そういう俗物性にあふれているのはどうかと思う。世の「進歩的」なヒトから見れば、彼らの発言は守旧的、右翼的と見えるのかもしれないが、ぼくに言わせれば、余りに大衆迎合的だ。ぼくがこよなく愛する「秩序への美学」が感じられない。そういう意味では、ぼくの思想が極右ということなのかもしれないが、彼らは最高の「民主主義の寵児」に見える。大衆感覚だったり、大衆ウケだったり、常に能力の劣る下々の顔を見すぎているからだ。結果、発言の品があまり良くないのはさておいても、なにせ重みがない。長たるものの発言とは感じられないではないか。

首相の発言は、深く考えない思い付きというのがありありとしている。いろいろ物議を醸し出しているが、それほどの確信犯とはどうしても思えない。あれを考えて言うのなら、もっと周到なやり方がある。もっともそれはそれで問題はあるだろうが、実際の中身を見てみれば、その辺のオジさんが何も考えないでフッと思いつくレベルであることはすぐわかる。よく言えば庶民的といえないこともないが、一国のリーダーの発想としては、ちょっと俗物過ぎる。本当に神がかった宗教的雰囲気のあるヒトに「日本は神国だ」といわれればちょっとはその気になるだろうが、森さんではリアリティーが足りないではないか。

一方、石原都知事は考えすぎのプロセスが見え見えと言うか、自分が傷つかないぎりぎりセーフになることを確認してから投げてくるビーンボール。文人らしいと言えばいかにも文人らしいが、ぼくは個人的には、死ぬ気で本気で危険球に命を掛ける武人的なリーダーの方が惹かれる。それはぼく自身がけっこう文人的なズルさを持っているので、都知事の発想や行動、発言の容易周到さの中に自分のズルさを見てしまうからだろう。「狙ってるな」っていうのが読めてしまうし、「ここを落としどころにする気だな」ってのも見えてしまう。

もともと本人が大衆レベルかどうかはさておき、大衆を相手に大向こうのウケを狙うのはいいが、狙いすぎては自分も大衆同様の俗物になってしまう。ここが難しいところだ。大衆狙いが悪いわけではない。人気があるのはいいことだし、大事なことだ。毅然としすぎて、全く理解されないようでも困る。とはいえ、それが目的になっては本質を失ってしまう。音楽だって、パクりをやっていれば大衆には受けるし、それなりに商売にはなるのは確かだが、これにハマるとアーティストとは呼べなくなってしまう。パクり職人、贋作作家だ。こうなるともう立派な俗物だろう。

俗物は、ウケはとれる。しかしウケをとるがあまり、自分の外側、大衆が共有している価値観に迎合してしまうから俗物化するのだ。これがひどくなってくると、他力本願になる。自分の外側にある権威や利権、価値観を利用しているうち、今度はそれに頼るようになる。これでは、まるで大衆の行動様式と同じではないか。懐具合だけで人間性の伴わない成金や、偏差値だけで人間性が皆無の高級官僚といった、大衆の中から成り上がってきた、生来の俗物と何ら変わらなくなってしまう。

生来か、迎合かという、そのせいせい理由は問わず、俗物になってしまうと、本能的に相手を惹きつけるものがなくなってしまう。理屈での「説得」、つまり前頭葉への働きかけでない、もっと血が騒ぐような魅力があってこそ人は動く。説得で動かしても、逆説得は同じレベルで可能だ。しかし血が騒いでその気になったものは非可逆だ。これは、本能的に惹きつけるカリスマ性があってはじめてできる。そしてカリスマ性は、大衆から超然としていてはじめて沸き起こってくるものだ。この美学は選ばれたものしか持てない。その姿の前では、すべての議論も思考も止まるほどの超然としたカリスマ。時代はそのような、美学を持った人間の出現を求めているのではないか。

(00/05/19)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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