一億総職人の誤り





日本人はもともと江戸時代から、「寄らば大樹の陰」の一方で「旅の恥はかき捨て」な人々だった。正解があるものならばなるべく楽に正解を追って行き、正解のないものはどうせなんでもいいからと杜撰にこなすという、要領良く世渡りすることには長けた人々といえるだろう。実は決して勤勉とは思えないし、それが今に続く日本人の裏の顔だろう。まあ社会が相対的に貧しかった分、必死にならなくては食っていけなかったということはいえるのだが。

とはいえ、要領良く世渡りをしているということは、それなりに及第点の結果を出していなくてはいけないので、結果的に「平均以上」のパフォーマンスを発揮できたということもできる。そこに、明治以降の文明開花の「追い付き、追い越せ」のベンチマーク教育が重なったため、「これをやればいい」という正解だけを追い求め、自分でモノを考えない人々が主流となる「近代日本人」のパーソナリティーの原型が生まれてきたと考えられる。

正解があるものに対してそれを作り上げるのが職人である。目指すべき完成形が明確なので、それを実現するためのチャレンジこそあるものの、その目標にどれだけ肉薄できたがという軸から作品は評価できる。その一方でアーティストは、今までになかった完成形を作り出さなくてはならない上に、その評価も定量的・客観的に判断することが極めて難しいものとなっている。求められる完成形がわかっているか、未知の完成形を生み出さなくてはならないのか。この差は極めて大きい。

完成形が明確であるということは、もちろん天性の器用さを持っている人ならば容易に作れてしまうだろうし、かならずしもそういう才能を持ち合わせていなくても、そこへ向かってたゆまぬ努力を続ければそれなりにマスターできるスキルであるということもできる。だからこそ職人芸には「修行」がつきものだったということができる。また目標が要件クリアである以上、長年の経験を積むことによって目標達成が可能になるタイプの職能である。

職人芸とは非常に形式知化しやすい職能なのだ。だからこそ「職人芸」をプログラム化して、NC工作機械や工業用ロボットで再現することが可能であり、実際に行われている。そういう意味では皮肉ではあるが、日本においては職人教育が形式知化したものをマスターする形式ではなく、「背中を見て覚えろ」という日本式OJTに終始したのも、形式知化してしまえば正解が誰にもわかってしまうからこそ、それを師匠の側が恐れていた表れであろう。

正解があるものに対して表面的・形式的に完璧なものを作るのは、youtube等動画サイトが充実して以降、いくらでも先生となる動画が無料で溢れている。そういう意味では、職人芸をマスターするには今や師匠の背中をそっと見つめる必要はなく、画面上の先生の手先をじっくり見つめれば済むようになった。もっともこの手の映像には、師匠ヅラしている本人が全然できていない素人というものもかなり多い(そっちの方が多いかも)ので、そこには注意する必要があるが。

社会の情報化が進んでその手のベンチマークすべき情報が容易に手に入る様になったのは、産業社会の終末期においては意味と恩恵があったかもしれない。だが、それが有効だったのも情報社会の幕開けまで。しかし情報社会においてはAIの登場以降、正解があるもの、完成形が明確なものについては、基本的に機械がこなすべき役割となり、人間が出る幕は無くなった。完成形さえ見せれば、AIがその加工プロセスを分析して、自動的にプログラミングしてくれる時代になった。

もはや人間が「職人芸」を分析して、プログラム化する必要もない。ホワイトカラー的な職能については、その職務の大部分が「情報処理」に属する作業であることから、努力と勉強で獲得できるスキルは直接的にAIに代替されることは、もうかなり前からここで何度も語っている。機械に代替されるのはそれだけではない。こういう形でブルーカラー的な「職人芸」もあっさり機械に取って替わられる。「職人芸」を良しとしてきた近代日本のメンタリティーこそ変わる必要があるのだ。


(25/11/28)

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