寄らば大国の陰
権力との付き合い方は、それぞれの国や民族の歴史において大きく違う。ヨーロッパの歴史を見てみればよくわかる。西や東の端は強い権力が生まれがちだが、真ん中は都市国家のような小王国が乱立し、19世紀までその状態が続いた。大国の強い王権は、実は強い王朝を求める民衆が広い支持があるから出来上がる。しかしその支持の基盤は国ごとに大きく異なる。
実は強い王権が成立する国ほど、民衆の忠誠心は強くない。その代わり、面従腹背でもいいから求心力を働かせる「何か」が歴然と存在する必要がある。忠誠心の対象はその「何か」であって、王権そのものではないのだ。その政権を切望する人々と、政権の権力の間には信頼関係も何もない。だが刹那的な求心力さえ働けばそれなりに権力の基盤はできるし、民衆はそれなりに熱狂的に権力に寄り添うようになる。その典型的な国はロシアと中国だろう。
歴史をみればすぐにわかる。ロシア人は一番強い「力」に引き寄せられる。外部に対して強い権力を人々は熱狂的に支持する。ある種の「お祭り騒ぎ」である。しかし「力」が弱くなれば、津波が引くときのように急速に人心ははなれ、もはや民衆から見放され権力を維持できなくなる。こうなると権力を維持するために、「力」の矛先は民衆を弾圧する側に向かわざるを得ない。力のベクトルの向き先、それがロシアの権力の分水嶺なのだ。
その一方で中国人が信奉するのは、なんといっても「金」だ。王権が金満でバラ撒きまくれる間は、たとえ面従腹背であっても民衆は権力に追従する。というより、バラ撒く者にしかヘイコラしない。毛沢東が長征時に農民に食い物をバラ撒きまくって共産党の支持者を負増やしたエピソードは、毛沢東自身が語っている。それも中国の古典を読んで、天命が変わって王朝が変わるときのダイナミズムがバラ撒きの主役の交代にあることを読み取ってのことだ。
しかし、それには裏がある。バラ撒くモノがなくなれば、民衆はそっぽを向き誰一人付き従わなくなる。ここでもまた力で民衆を押さえつけるベクトルが働き出す。しかしそれはさらなる離反を呼ぶ。当然この機を狙っている有力な地方軍閥の長は、逃げてきた民衆にバラまきを施し自分の支持者として取り込む。こうして古い王朝は力を失い、じわじわと新しい勢力が力をつけてゆく。
中国の王朝の最後は、皆太原には誰もいなくなったというところで終わっている。バラ撒くものがなくなった王朝に忠誠を誓う中国人などいない。かくして激しいドンパチもなく、ひそかにバラ撒いて民衆の支持を集めていた新しい皇帝が、無血入場して「天命が変わる」というパターンがほとんどである。「天命」とは、実はバラ撒きによる民衆の支持のことと言っても良いだろう。
中国やロシアの人々は、このように伝統的に国家のような組織に対する忠誠心を全く持っていない。ある意味これは、人々はいつでも隣に逃亡できる構造を持っている大陸大国の宿命である。だからこそ国民に求心力を働かせるためには、ロシアのツァー・中国の皇帝といった存在が不可欠でなのだ。そういう強い象徴的存在が歴然と存在し、そのプレゼンスが人々の求める理想像に近付けば近付くほど、求心力が働き権力は強化される。
大陸大国が民衆の支持を得て隆盛を誇っている間は、なかなかこの構造は見えてこない。だが21世紀の情報社会の到来というパラダイムシフトを経て、我々はこのような大国の断末魔を目前にすることができる可能性が高まってきた。今後の世界情勢を考える上ではこのような大国のモチベーションになっているものをきちんと見据える必要がある。それは日本人にはなかなか想像できないマインドだからだ。
(25/12/05)
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