忠誠心の生まれるところ
大国が民衆に求心力を働かせるためには、彼等を惹きつける強い何かがなければならず、それが絶えた時にはプッツリと縁が切れてしまうことは前回見て来た。確かに全体としてのまとまりは物理的には巨大だが、大きいが故にその一つ一つの絆は脆弱であり、権力の側が維持に失敗すると一気に崩れ去ってしまう。それに対して、小さくとも団結力の働く国もある。そういう国においては、民衆一人一人のアイデンティティーもしくは存立基盤として国が成立している。
日本は幸か不幸か島国であるがゆえに、島の中にいくつもの「クニ」があり、そこへのロイヤリティーは高いものの、本州を中心とした群島としての集合意識は薄かった。近世まで「日本」としてのまとまりは、一部の権力階級の者だけが意識する者であり、一般の民衆の関心外であった。とはいえ地の果てとしての「海岸線」は意識されており、これが日本の周延として意識されていたからこそ、近代国家の概念が導入された時自ずとそこが境界となった。
日本は特に忠誠心や求心力を働かせなくとも、物理的に「端」が見えていたので、そこを超えることも難しく、おのずと海のところでまとまってしまった。これが日本では本来の忠誠心や民族的な愛国心を理解し切れない原因となっている。確かに「クニ」の成立においては忠誠心や自主的な求心力が働いたことは間違いない。そういう意味では大国の国民よりはまだまとまる力があることは間違いない。しかし、自分達でアイデンティティーの外枠を守らずとも、海が守ってくれてしまう。
逆に小さい王国が自立する基盤を持つためには、忠誠心の強い民衆が強固に支えている必要がある。歴史を紐解けば、今もロシアと戦っているウクライナやをはじめポーランドなど、強大国に挟まれた小国は常に周りから侵略され国を奪われては再建することを繰り返してきた。ここでは忠誠心こそが民族の絆であり、それがなければ自分たちの存在理由が失われてしまうことになる。まさに強固な忠誠心がこそが民族のそして国家のアイデンティティーなのだ。
だからこそ侵略に攻する力も強いし、力で圧倒されて国家が消されてしまったとしても、求心力があり続ける限りいつかは復活することになる。その最たるものはユダヤ人だろう。国自体がなくとも団結力を持ち続け、ヨーロッパ社会の中で暗然たる存在となって、国民国家の時代になっても国境を越えた独自のネットワークを保持し続けた。彼等はもはや「場」は持たない存在となっても、自分達のアイデンティティーを保ち続けていた。
両極端ではあるが、直接的なメリットか愛国心か、そこに力学を働かせる何かがなくては大陸におけるアイデンティティーを保つことはできない。メリットに引き寄せられれば大国となりそのプレゼンスは強大になるが、それはあくまでも刹那的なもので強い精神的な支柱とならない。逆に愛国心に引き寄せられれば、極めて強力な求心力になるが、それが強ければ強いほどセクト主義的になり、側から見れば同族同士でも地で血を洗う啀み合いになる。
いずれにしろアイデンティティーを守ることに対する熱意と真剣さは、自分達の存在を証明し守ることでもある。それは不断の努力があってはじめてできることである。そのエネルギー無くしては、自分達の存在自体が危ういものとなってしまうのが大陸の掟なのだ。だからこそその形やあり方は異なるものの、何らかの形でその熱源となるものをビルトインさせているし、それなくしては生きていけない。海岸線という物理的な境界に守られている日本とは全く異なるのだ。
個人としてはグローバルに活躍する日本人も多いが、日本の企業や組織が海外でうまくいかないことが多い理由はここにある。日本の組織の多くで大陸的な組織論が通用しないのだ(オーナー企業やファウンダーが明確な企業は別として)。ある意味日本の組織の基本は、ほどほどの忠誠心とほどほどの刹那主義がキメラ的に結合したご都合主義にある。それはそれで日本的でいいところもあるが、グローバルスタンダードとの違いはもはやキチンと弁えるべき時になっていると言えるだろう。
(25/12/12)
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