ヤジ将軍





ヤジは議論に入らず、火の粉の飛んでこない外野から偉そうに言う行為である。それは一見自分も参加しているような気になっているものの、結局は当事者ではない立ち位置にいるからこそできる無責任な行為だ。ある意味、祭りでお神輿を担いで汗をかくことなく、周りでソイヤソイヤい叫びながら酒を飲んで祭りに参加した気になっている自称「祭りマニア」の「参加意識」と瓜二つである。そして、無責任な人が多い日本人にはこういう居場所が好きな人が多い。

賛成・反対を明確に表明し、いざとなって突如自分に指名が来たら、きちんと自分が賛成だったり反対だったり言えるのであればヤジを飛ばしても問題ないであろう。しかしヤジを飛ばす人の多くはそういうように「自分も議論に参加したい」から声を出すのではなく、揶揄するだけしかせずに、それで相手にダメージを与えて勝ち誇ったような気分に浸りたいだけのことがほとんどである。これじゃ、オヤジがテレビの画面に向かってグチを叫んでいるのと変わらない。

本当に議論する気があるのなら、出すべきヤジは「異議あり」だろう。これは馴れ合った論戦に対する楔だ。言い合っている内容がおかしいと思うなら、それを論破しなくては意味がない。だからこそそこで臨時に議論に参加させてもらえるようになれば本望、というのが肚を括って提案する「異議」だ。きちんとそれだけの志を持って叫ぶのであれば、人の発言を遮るような大声で主張したとしても意味があるし、その志には受けて立つべきである。

そういう真剣な議論をする気もないのに、でかい声を出すだけでなにか自分の存在感が増してくるような勘違いをしているのがこのところの左翼系野党議員だろう。正規の質問時間でも言葉尻の揚げ足取りのような質問で攻撃しているような気になっているのだから、まともな議論ができないことはよくわかる。その分憂さ晴らしなのか、でかい声を出して相手の発言を遮って聞こえないようにすれば自分の存在感がアピールできたかのような大きな勘違い。

55年体制のように与野党の圧倒的に実力が違い、左翼系野党は「無責任政党」としてゴネて相手の譲歩を引き出し、自分に有利な政策を与党に飲ませれば得点になった時代ならば、「ゴネ得」も得点になったということができる。まだ言葉をしゃべれない赤ん坊も、泣いて駄々をこねれば自分のいやなことを拒否するとともに、機嫌を取ろうと自分の好きなことをやってくれる可能性があるし、実際本能的にそういう戦略をとる。これと全く同じ事である。

子供は駄々をこねる聞かん坊であっても、親からすればかわいい。だからこそ許される部分もあるし、脈々と続いている。しかし野党の「ダダこね」は可愛くない分それ以下だ。あたかも昭和のころのヤクザや総会屋に絡まれると、うるさくて煩わしいし、あまり関わり合いになりたくないので、長いものに巻かれて金を出すことで対応していたのと似ている。まあ、人間性という面から考えてもそのレベルの連中ということでは大同小異だし。

結局彼等が無責任で真剣にやる気がないというのは、二度も政権交代を実現したにもかかわらず、それによって何も成し遂げられなかったという「社会実験」の結果が示している。こういう無責任な脛齧りがなりたったというのも、高度成長期の徒花だ。そこに金が余っていたからこそ無心ができた。そもそも無い脛は齧れない。反対していればおこぼれにあずかれた昭和の野党のやり方が、21世紀になった今の時代に通用するわけがないのだ。

そもそもまともな意見がなく、相手に反対することだけが自分のアイデンティティーでもなんとかおこぼれにあずかれたのが「55年体制」の本質だ。長い間そういう環境に浸ってきただけに、本来の政治家としての能力は退化してしまった。しかし21世紀の情報社会になり、表面を取り繕うだけのまやかしは通じなくなり、アホの茶番にしか見えなくなった。当事者としての責任能力がないのなら議席を持っている方がおかしい。要はそれだけのことである。


(25/12/19)

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