出羽守





左翼・リベラルにしばしばみられる行動様式に「出羽守」がある。自分の言葉で自分の意見を述べることができないため、何かを語るときにはきまってプレゼンスのある誰かの意見に仮託することで、自分の発言の正当性を担保しようとする。その言葉が自分の身についた考え方でない以上、ただ主張するだけで議論にならず話が全くかみ合わない。そういう意味では「出羽守」の本質は権威主義にある。

確かに左翼・リベラルは権威主義だし、全員に同じ方向を向かせる全体主義を愛する傾向が強いなど、「出羽守」をはじめとする行動様式は相互に強い相関を持っている。とはいえ、左翼・リベラルであることと権威主義であることは因果関係にはない。統計に強い人ならすぐにピンとくるところだが、因果関係になく強い相関があると言えば、そこで疑われるのは疑似相関である。

なにか裏に隠れた「真の原因」があって、それゆえ左翼・リベラルを信奉し、権威主義になるのだ。この「真の原因」を分析してみよう。それを解くカギは、彼等の生きざまにある。彼等の行動様式の根底には彼等に共通する「生き方」があり、それを見抜けば彼等の本質も見えてくるというものだ。そのためには左翼・リベラルの活動家より、数の多いその支持者を見てゆく方がわかりやすいだろう。

このような革新系野党は、地方議会ではしばしば公営住宅や生活保護、各種補助支援策のあっせんが本業のようになっている。地方公共団体の補助・支援関係施策は、まともに申し出ても窓口で難癖をつけられたり、些細な書類の不備をあげつらわれたりしてなかなか通らない。だがこの手の申請も、公明党や共産党の議員さんに頼むとあっさり通ってしまう。すなわち支持者はそういう人達なのだ。

端的に言えば自分で頑張って働き自助努力するより、生活保護をもらって楽する方が好きな人たちが支持者になっているということだ。ここでもカギは「自立・自己責任」か「甘え・無責任」かということになる。そして、そういう「甘え・無責任」な人の支持を集めるためには、権威主義的・全体主義的な方がいい。長いものに巻かれるのが好きなのだから、より強くより大きな「長いもの」に惹かれるわけだ。

他責・他力本願な人の幻想を利用して数を集め政権を握るという手法は、エンゲルス・レーニンの昔から左翼にビルトインされてきた黄金律だ。それはその後雨後の筍のように現れてくる新興宗教の信者集めの方法と瓜二つである。というより、他責・他力本願な人は意識下に強いコンプレックスを持っていることが多く、そこに対し他力の救いを求めるからこそ左翼や労働運動、新興宗教に頼るのだ。

そして社会が高度化・複雑化すればするほどそのギャップが引き起こす悩みは深くなるため、産業社会の発達とともにこういう悩みを持った人は増えてくる。悩みが増えれば増えるほど、寄らば大樹の陰とばかりに甘い言葉に騙されやすくなる。そもそも他責・他力本願な人は言い換えれば依存症を発症しがちだ。マルチ商法や健康法に引っ掛かりやすいし、ギャンブルに手を出せば身を持ち崩す。

こういう人達を引っ掛けるのには、リアリティーのある巧妙なロジックは要らない。かえって荒唐無稽であればあるほど、他力な人は「あわよくば」おいしい思いができるのではないか自らの幻想に酔ってしまう傾向にある。かつて日本社会党が北朝鮮を称して「地上の楽園」と喧伝したことなど、その典型である。まさに左翼政党の詐欺師的な本質を垣間見ることができる。

高度成長期は、結果的に時間とともに経済が成長してなんらかの「分け前」にありつけたので、こういう荒唐無稽な約束もある程度は後付けで辻褄を合わせることができた。しかしバブル崩壊以降の安定成長(バブル崩壊は、右肩上がりの成長が日本という国を前提にする限り伸び切るところまで伸びてしまい、それ以上伸び代がなくなったという構造的原因がある)でそれは叶わなくなった。

基本的に理念のない左翼・リベラルは時代の変化に合わせて行動様式を改めることができなかったため、90年代以降は「公金ちゅーちゅー」のバラ撒きおねだり路線に変更した。これとて無い袖は振れない状態になれば立ち行かなくなる。もはや我田引水な理屈には誰も耳を傾けない。それが産業社会から情報社会への完全移行という今になって社会の常識になったということなのだ。


(26/01/09)

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