信念
自分に信念があれば、その信念と比較して情報がフェイクかリアルか容易に判断できる。その一方で自分という軸を持っていない人は、常に世の中の動向を気にしてそれに合わせて生きるしかない。こういう人は、どの情報が真実なのかについて異常なまでに敏感になる。その分その情報がホントなのかウソなのか周辺の情報との関係を詳しく吟味して、真実と信じるに足ると確信して初めて受け入れることになる。
このため、最初から騙す気ならばこういう人は簡単に騙すことができる。どこから見ても筋が通っているように繕えば、容易に真実と判断してしまうからだ。ロジカルに物を考える人を詐欺で引っ掛けるのがたやすいのと同じである。地面師を本物と思って仕事を受けてしまう弁護士が結構いるのも同じ理由だ。自分が受け取った情報だけで真偽を判断しようとする限り、このジレンマを乗り越えることはできない。
これは自然科学の歴史をふりかえってもよく理解できる事実だ。天動説から地動説のように、新発見による「コペルニクス的転回」は科学の歴史ではしばしばが起こっている。これは科学の体系自体が、公理からロジカルに組み立てていったものであるがゆえに、その根本に近いところで今までの「常識」を覆す発見がもたらされると、全体系の書き換えを余儀なくされるためである。
それに引き換え信念を持っている人間にとっての「真実」とは、自分の信念に照らし合わせてみて整合性が高いということに他ならない。そこには外部の価値観の立ち入る余地はない。自分の信念と一致するものこそ真実であり、違うものが虚偽なのだ。そもそも「客観的真実」などというものは、あって無きが如し。あくまでも相対的なものであり、そのくらい状況によって変わる不安定なものなのだ。
昨今フェイクニュースが問題とされがちだが、それは信念を持つことができず、周りの情報に振り回されてしまう人が多いからだ。世の中にはいろいろな価値観の人がいる。当然相対立する価値観を持つ人がいてもおかしくない。それが同時に流れてくるのが情報社会である。そしてその中から自分が納得できるものを選り分けて接触できるかが、情報社会では必須のリテラシーとなってくる。
そのカギとなるのが、自分としてのそれまでの経験や情報から「これが自分にとっての真実」と思えるものを持っているかどうかである。信念とはこの「自分にとっての真実」を言い換えたものである。しっかりとこれを持っていれば、フェイクに惑わされることはない。どんな場合でも自分にとって「正しい」と思える情報だけを取り入れることができるからだ。少なくともブレることはなくなる。
また違う多様な意見を受け入れるためにも、信念は重要である。信念を持つ者同士は、たとえその信念の内容が相対立するものであっても、相手がそのような意見を持つことを認めることができ、その信念の強さには互いに一目置く関係を構築できる。思想信条の自由は、信念があって初めて機能するのだ。寄らば大樹の陰で信念を持てない左翼・リベラルが異なる意見に寛容でないのもこれゆえである。
そういう意味では、信念こそ「情報社会の歩き方」の1ページ目である。情報社会とは、信念を持つ人にとっては実に居心地が良く心が落ち着く世の中だが、それを持てない人にとっては不安と猜疑心の塊になってしまう世の中である。何が何でも「俺は俺、俺の道を行く」ことができる人は、他人がどうしているかなど全く気にはならない。情報社会を生きる極意はここにあるのだ。
(26/01/16)
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