原点に学ぶ
この数年のブーメラン・オウンゴールの連発で、日本の55年体制のような「おこぼれに預かる」ためだけに存在していた左翼・リベラルは完全に息の根を止められた感がある。ここに至って断末魔のあがきにも似た状態に陥っている。手を打てば打つほど、自らの首を絞めてゆく。もう少しものを考えてから行動すればと思ってしまうのだが、そもそも彼等には考える力がないのだから仕方がない。とにかくレミングの「死の行進」の如き状況である。
しかし本当の意味のリベラリズム、左翼的な政治家や活動家ではなく理想主義者としてのリベラリストは、今こそ求められているのではないだろうか。AIの実用化により現実のものとなった情報社会の到来を、産業社会の終焉として悲劇的に捉えるのではなく、人類にとっての新たなチャンスして捉えるためには、理想主義的なヴィジョンが必須である。そしてそのようなヴィジョンこそ、本来の意味のリベラルな視点からみた理想主義の中から生まれてくるものだからだ。
社会主義・共産主義・左翼というのは、理念でも何でもなく、エンゲルス以来の活動家が権力を握るためのプロパガンダだったことはここでも何度も論述した。「造反有理」ではないが、左翼・リベラルは理屈さえ付けば自分の主張や行動を正当化できると考えがちだ。この傾向は19世紀に左翼的政治思想が生まれた時から変わっていない。エスタブリッシュされている現実の体制を打ち崩して自分達の権力を打ち立てるためには、そのための正当性が求められたからだ。
その一方でカール・マルクスは単なるヴィジョナリストで、人類の理想社会を夢見て描いただけの哲学者だ。そしてそこで描かれていた「理想郷」が当時の現実の社会とは異なるものだったことから、活動家エンゲルスが目を付け、「これこそが自分たちの目指す世の中だ」と喧伝することになった。その間には論理的繋がりはないにもかかわらず、屁理屈以外の何者でもない強弁でまとめ上げたのが「エンゲルス編」の一連の「左翼の聖書」だ。
ぼくもyouthquakeの時代、ませた高校生だったので、当然当時はやっていたそういう左翼的な古典も実は貪るように読んだ。そこから見つけたのは、純粋な理想主義者のマルクスと単なる活動家のエンゲルスの差だ。マルクスは理想論を語っているだけで、そこに至る政治的方策を主張しているのではない。その一方で、エンゲルスは単なるアジテーターで自分たちの政治的主張に箔をつけるべく、マルクスの理想主義を引用しているだけだ。
これは当時の新左翼と言われていたセクトの理論的支柱となりバックアップをしていた学識者も指摘していたことだ。哲学者としてのマルクスが本当に考えていたことを知りたければ、マルクスが直接書いたものを読むべきであり、エンゲルスの色に染まった偽書を読んではいけない。ここが政治と学問の違いであると。そこでマルクスとエンゲルスは水と油、言っている内容も換骨奪胎されて全く意味が違うものになっていることを理解した。
産業革命で産業社会に移行する時代に顕著になった社会的問題に着目し、それを超越する人類の理想社会のあり方を求めたのがマルクスである。そういう意味では、AIにより情報社会に移行する時代である今こそ、まさに今問題になってきている社会的問題に対する答えとしての「シン・理想社会」のあり方を求めることが必要となっているということができる。マルクス自身が夢見たのは「200年前の理想社会」に過ぎないが、その問題意識は今でも意味がある。
情報社会における人間のあるべき姿を明確にすることが、これからの100年・200年を実りあるものにするのか不幸なものにするのかの分かれ目になる。出でよヴィジョナリスト。人類を救うのだ。ただし、マルクスに学ぶべきところがある。そこで示した理想社会の姿を、政治家や活動家に自分達の道具として掠め取られないようにしろ。理想社会の提示というのは、こういう危うさを含んでいる。19世紀・20世紀を通した社会実験が何よりそれを示しているではないか。
(26/01/30)
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