上から目線





衆議院議員選挙の結果を分析する中でその要因として、40代以下の層では「上から目線が嫌悪されている」という論調がやっとまともに論じられるようになった。マーケティングにおいてはキャズム理論が登場した90年代以来、実務家マーケッターの間では「上から目線の嫌悪」はある意味「常識」となっていた(それでもアカデミックなマーケティング学者の間では旧来のイノベーター理論のような流行・普及理論を信奉している人もそれなりにいたが)。

そもそもその定義からして、上から目線とは「人の上に人を作る」ことによって生じる、相手を一段低い劣るものとして見ることを意味する。従って、上から目線で平等とか多様性を語ることは、まさに自己矛盾の最たるもの。説得力がないどころか、わかる人にとっては滑稽でさえある。これを、左翼・リベラルをはじめとして、アカデミックな学識者、ジャーナリストなどがしたり顔でやっていたのが20世紀だし、それをありがたがる人がいたことも確かだ。

「上から目線で物事を論じる」ということ自体が、自分達だけが別格の特権を持っているという意識の表れである。かつて学者やジャーナリストがこういう特権意識の塊だったことは容易に想像できる。「象牙の塔」とか「ペンは剣よりも強し」などと語られたことがそれを如実にしめしている。左翼・リベラルの活動家がこういう意識を持っていたのは、もともとの社会主義・共産主義の活動が、キリスト教の宣教師をモデルにしていたためであろう。

まあそのような天上人から見れば、下々の者はどんぐりの背比べで平等だし大して違わないのだから多様と言っていいということになるのかもしれない。だが、そもそも天上人と下々という分け方は差別であるとともに非対称的であり、それを前提としている以上、彼等の主張は本質的に平等や多様性を認めるものとはならないことは明らかだ。そっちが本質である以上、真実が誰の目にも明らかになって屁理屈で誤魔化そうと思っても通じなくなったというのが真相だろう。

かつて産業社会の創世記は階級社会が色濃く残っていた。階級社会を前提にするのなら、「お上の思し召し」は当たり前だったろう。上流階級には常にノブリス・オブリジェが求められた。その時代においては、上から目線でものを語ることも通用したのだろう。ヨーロッパでも庶民には文盲が多かった時代、それなりに教育を受けて古典の教養も身に付けた貴族階級が、その知識を思し召しとして人々を「啓蒙」するために使うこともある意味上流階級の義務だったろう。

だが20世紀に入り先進国においては世界的に大衆社会が到来した。階級社会は崩壊し、貧富の差こそあれ普通選挙の実施により人権という意味では誰もが平等になった。この時点でもはや「上から目線」はその存立基盤を失っていた。そして社会の情報化が進んだ90年代以降のキャズムの時代においては、ボリュームゾーンの一般人からは、上から目線自体が差別的なものと捉えられるようになり、横から目線の情報しか信じなくなった。

世の中の流行が「横から目線」になって久しい。ファッションでもエンタテインメントでも、かつてのように評論家がいてそれが認めるものが流行る時代は去り、みんなが気に入っているSNS等の「おすすめ」にこぞって群がるようになったのは21世紀が始まった「0年代」からのことだ。そういう流れのものでなくては、いくらメディアが騒いでも「売れない」のは、実際にビジネス現場にいる人ならば、もう20年以上に渡って実感していることだろう。

そういう意味では、左翼・リベラル、マスコミ、有識者というのは、世間から取り残されたまま20世紀にしがみついていた人達だ。彼等「差別的天上人」がとうとう「裸の王様」になってしまったのがコロナ禍以来だし、ついに自分達自身もそれを実感せざるをえないところまで追い込まれたのだ。21世紀も四半世紀を経て、ついにその「砂上の楼閣」が崩れ去ったということだろう。まさに「馬鹿は死ななきゃ治らない」という「茹で蛙」な人達だったということだ。


(26/02/27)

(c)2026 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる