日本的個人主義





64年の東京オリンピックから70年の大阪万博の間を境として、生活・文化といったソフト的領域において日本社会の構造は大きく変化した。それまでの明治時代、いや江戸時代から脈々と受け継がれてきた伝統的な暮らしの在り方が断ち切られ、今に続く現代的なスタイルへと取って変わった。それは衣食住といった生活の表面的な部分での変化にとどまらず、家庭や人間関係といった社会構造の基本となる部分にまで及ぶ、極めて大きな変化であった。

因果関係的に捉えれば、イエにおける家族の構造が変わってしまったことが、個別具体的な現象における変化と引き起こしたと見ることができる。そのそもそもの要因は、高度成長期の日本で発生した巨大なうねり、集団就職に代表される人口分布の大移動にある。これにより生活の基盤となる家庭の在り方が大きく変わり、それまでの農村の母系性的な大家族は一部を残してほとんど絶滅し、それ以降の日本の家族は核家族が基本となった。

このため、この変化が起こる前に人格形成期を過ごした昭和30年代までの日本人は、大家族の元で共同体的な価値観を刷り込まれて育った人達がほとんどであった。だが、核家族が家族の基本スタイルとなると、大家族・共同体的リテラシーを持つ人々は減ってくる。団塊世代の核家族がそうだったように、親が共同体的リテラシーをもっていれば、それはある程度子供にも受け継がれる。しかし、それは世代が下るに従ってどんどん希薄化してゆく。

そして共同体的リテラシーを育む基本となる大家族・共同体的家族が崩れてしまってから半世紀以上の時間が経った。今やかつて日本の主流だった大家族・共同体的リテラシーを典型的に持つ人々は、75歳以上の後期高齢者のシニア層だけになってしまった。26年2月の衆議院銀選挙の結果がそれを如実に示している。労働人口の多くにおいては、古典的な意味で日本人の特性とされていた、いわゆる日本的な「集団依存」性は薄れざるを得ない。

高度成長期に農村部から都市部に移動した人々は、その刷り込まれたリテラシーからして「縋るべき大樹」がないと生きていけない。高度成長期に成長した「組織」である大企業やその組合、新興宗教などは、この時期に共同体から切り離された「個人」の擬似共同体となることで、都会に出てきた地方の共同体的大家族出身者に安心と安定を与え、個人には心の安定を、組織には忠誠心を提供する形でその後の経済発展の大きな支えとなった。

そして今や30代以下の現役世代は、核家族3世の世代である。30代以下の中道革新連合/立憲民主党の支持率が0%という世論調査が選挙戦中に発表され話題となったが、擬似共同体となって支持を集めた組合や宗教のやり方はもはや通用しないことを何よりも如実に示している。日教組に入っている中高の先生もいるだろうが、昔のように組織票で投票を依頼しても彼等は組合員ではあっても活動家ではないので、はいはいとすぐにその通り投票はしないのだ。

彼等には祖父祖母に当たる団塊世代以上の共同体世代から、核家族の中でも受け継がれた共同体を求める志向こそわずかに残っているものの、どっぷり浸って自分の存在を消せる共同体などどこにもない中で生まれ育ちそれに慣れた世代と言える。情報社会は基本的に共同体とは相容れない。結局は、個人が一人で自分の足で立って生きていくしかない。ほんのわずかな共同体への憧れと、個人を立てていかなければいかない情報社会という現実。この折り合いをつけることが21世紀には必須なのだ。

このようなアンビバレントな存在を救う処方箋を探るカギとなるのが、情報社会化の進展とともに現れた「推し」という行動様式である。「推し」ているファンは、「推し」のアイドルやキャラに完全に帰依し依存はしている。しかし推しは推しであってその関係性はあくまでもヴァーチャルなものであり、リアルな友人や恋人との関係性ではない。かつてはこのバランスがおかしくなっていろいろな事件も引き起こされたが、ディジタルネイティブ世代は問題がない。

そう考えると「推し」の集団はある意味「擬似共同体」として、ヴァーチャルではあるもののそこにおいては自分が埋没できる集団として機能している。そういう集団の中で名前ではなく一般にハンドルネームで呼ばれ、そのハンドルネームにぶるさがっている人格も、リアルな個人のものではなくその「界隈」で認められているものとなっている。そういう意味では、情報社会においては情報環境を駆使した形でヴァーチャルなコミュニティーが生まれている。

90年代以降に生まれた、物心ついた時にはインターネットがあったディジタル・ネイティブ世代。精神的にはヴァーチャルなコミュニティーに依存している部分が多々あるものの、物理的にはどのようなコミュニティーにも依存せず一人で立っている。ある意味「自分は自分、他人は他人」の個人主義ではあるのだが、精神的には依存しているものがある。この状態を21世紀の日本社会に顕著に見られる傾向ということで、日本的個人主義と名付けよう。

このような状態はある種の平衡状態にハマりやすい。そうなるとそこが一番居心地がいい。社会の安定思考が強まっているように見えるのも、生涯独身者が増えているのも、結局はこの日本的個人主義が広まったためということができる。いい悪いではなく、これが現実だということを受け入れることが大事なのだ。左翼野党や高度成長期形の新興宗教は、そこを失敗した。そういう社会であることを認めた上で、どういうチャンスを作って行けるのかが、情報社会を宝の山にする上では重要と言える。


(26/03/06)

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