相手を見るな





秀才エリートは、単にランキングの順位しか自分の拠り所がない。このため、順位や偏差値に異常なまでにこだわりを示す。まあ、地道に努力してガチンコでポジションアップを狙うのなら、それは個人の趣味の問題だからどうでもよく、他人がとやかくいうことではない。しかし順位というものは他の人との相対的な関係なので常に「相手」を意識するものである以上、相手の足を引っ張ることで自分の順位を繰上げようという策にはまりやすい。

特に悪賢い奴ほど、こっちの作戦にシャカリキになる。ガチンコでレベルアップするよりも、こういう小賢しい裏技を駆使するほうが余程楽だし、確実に相手を引き下せるのだから効果も高い。だからこそ、彼等はすぐにマウントを取って相手を引き摺り下ろそうとする。「白い虚塔」のアカデミックな世界もいかにライバルを失脚させるかに終始しているし、キャリア官僚の世界でもいつも「相手が失敗してくれ」と祈りがちだ。

警察署長は、自分の署の管内を天皇陛下の行幸の車列が通っている間は「事件・事故が起こるな」と願うが、隣の署の管内に入ると「事件が起こって署長の首が飛べは自分の出世が早まる」とばかりに「事件・事故が起きろ」と本音では願っているという。これは、官僚発想の本質を示す言葉としてよく語られる。現場のノンキャリの警察官は皆さん真面目で職務に忠実だと思うが、落下傘のキャリア警察官僚はやはり官僚発想なのだ。

結局秀才エリートというのは、試験で何点を取ったかという一軸の軸上での競争をしているだけなので、どこまで行ってもどんぐりの背比べであって本質的な違いはない。さらに試験というものの性質上、得意な問題が出れば点数は上がるし、苦手な問題が出れば点数が下がるので、得意とする領域が多ければ有利になるというという程度の差である。運良く得意な問題が出れば、苦手が多い人でも満点を取るチャンスがある。だからこそ、必要以上に気にするのだ。

その一方で天才は他人のことは全く気にしない。自分と同じ道を進める人はどこにもいないからこそ天才だからだ。天才であるということは、唯一無二の人であること、比べる相手がいないことと同値である。したがって本当に才能を持っている人である天才は、何があっても我が道を行くだけであり、周りの人々が何をしているかを気にすることはない。そんなことに気を遣うくらいならば、もっと自分の道を極めることにエネルギーを費やすだろう。

つまり天才の条件とは、周りのことには基本的に一切興味がなく、「自分がしたいことができているかどうか」だけにしか関心がないことにある。自分が満足できるかどうかこそが絶対的な指標で、他人から評価される必要がないからだ。これはポテンシャルがあまりに高く、その理想型・完成型が自分のイメージの中ではっきり見えていることに基づく。それに現実がどこまで肉薄したかだけが気に掛かっている。全てが自分の中で完結しており、己の敵は「弱い己」でしかない。

天才が情報社会で強いのは、このように理想型・完成型が明確でそこからバックキャスティング発想で道筋を拓いてゆけるため、自分の肚さえ括れば何でも自己完結で決定できることによる。知識で答えが出せない問題については、肚を括って決断しない限り対応ができない。そしてそれができるためには、最初から完成型が明確に見えている必要がある。すでにここでも何度も分析し語ってきたように、情報社会において機械ではなく人間の役割として求められるのはそういう蛮勇である。

「正解」を求めないこと。人の顔色を窺わないこと。要は情報社会においては、相手を見なければいい。そうすれば「正解は見えているのだが他人の顔色が気になっ蛮勇が震えない」でいる「準天才」も決断できるようになるだろう。そして情報社会では、相手は多くの場合生身の人間ではなく情報システムになる。となれば、それはOfficeの「カイル君」に「お前を消す方法」を尋ねるようなもの。これなら相手を恐れず蛮勇をふるうことがやりやすくなるだろう。


(26/03/13)

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