育ちの良さ





私利私欲に走る人の出現確率は、その人が育った環境に大きく影響される。20世紀後半以降の日本社会では「建前としての平等」が原則なので、おおっぴらにこういう調査はしにくいが、マーケティング調査のフェイスシート項目に紛れ込ませてデータを取ると、親の資産や住環境といった「育った環境」の従属変数の違いにより、明らかに有意な差が出てくる。そういう意味では、年収では測ることができない、質的な階級差は日本においてはずっと存続してきたといえる。

代々ある程度以上の資産を持ち、教養も備えている人は、露骨に欲望を剥き出しにしたり、他人を押し除けてまで儲けようとしたりするのは見苦しく恥ずかしいことと弁えている。自分のポジションを見せびらかすようにしてはいけないという教育を受けているとともに、余裕がある分他人のために尽くしなさいというノブリスオブリジェの精神も叩き込まれている。それが社会の中で自分の居場所を安泰なものとするためには必須だからだ。

その一方で「成金」に代表される一代で大儲けして金持ちになった人は、そういうベースを持っていないがゆえに、自分の資産をひけらかすような行動をしがちである。それは単に見栄の延長上の行動だ。本当の資産家は、月額賃料数百万円のタワマンなんかには住まないし、無駄に三つ星レストランで豪勢な食事もしない。質実剛健にして先祖から受け継いだ資産を守り増やすのが自分の役割であり、それを果たせなければご先祖様に合わせる顔がなくなってしまうからだ。

流石に21世紀の現代ではそういう「優雅さ」を持った人は少なくなってきているし、その影響で「成金」の中でもあたかも代々の資産家のように見せたいという「見栄」を張る人もほとんどいない。実は、こういう「逆見栄」でのモノマネが、資産家コミュニティーの一員として認められるかどうかという、本当の意味での資産家らしさを身につける上では大きな役割を果たしていただけに、現代の成金が新たに「伝統」を生み出す可能性は低くなっていると言わざるを得ない。

とはいえ、今でも「育ちのいい人」はいないわけではない。旧華族の方々とか、今では必ずしも資産家ではなくとも、矜持としてやはり一味違う「気品」を漂わせていたりする。そこまでいかなくとも、ある程度先祖代々の資産と教養を持った環境で育った人は、やはり余裕と肚の座り方が違う。これはまさに育った環境からの日常的な刷り込みの問題であって、教育や努力でどうこうなるものではない。理性で「気品」ぶっても、パニックになるとどこかで破綻が見えてしまうものである。

このような、質的・構造的な違いを隠蔽するかのように、戦後日本社会においては、「年収」「偏差値」といったリニアな数値だけを持って「人と人の間の差」を示すランキングとしてきた。だがAIの実用化に代表される情報社会の到来により、まず偏差値が意味を失った。どんなテストでも正解がある限りAIの方が高得点を取れるからだ。それとともに年功制・終身雇用の日本的雇用も息の根を止められ、年収の多寡も人の指標としての意味を失った。

こうなると人の価値を示す指標も、情報社会ならではのものとならざるを得ない。社会の情報化が進むと、コンピュータ上での処理は公明正大でホワイトにならざるを得ず、違法なものを受け付けなくなる分、ある意味人間系で残る部分は、地下経済・ブラックマネーの領域に近付いてくる。なまじ悪知恵の働く頭の回転の速い人間ほど、こういうアウトローな領域で活躍の余地が多くなってくる。これを防ぐためには、人間系で権力を持つ人材を、公正で我田引水のない人に限る必要がある。

まさに、これを担保するものが「育ちの良さ」なのだ。育ちが良ければ、権力を傘に私腹を肥やしたり、公私混同の利益誘導をしたりすることはない。偏差値で人を評価してポジションにつけるから、天下りの椅子作りに汲々とする官僚が跋扈するのだ。AI側が公明正大である以上、人間系も公明正大である必要がある。そのためには、育ちのいい人間をしかるべきポジションにつけることが望ましい。それを担保するものは何より家系・世襲であり、それがこれからの人間社会の繁栄のためのカギとなることは間違いない。


(26/04/03)

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