徳の教育






近代の教育は、あくまでも「知識」を伝え教えるためのプロセスだった。知識なら、単にその情報についてフラグが立つだけ、つまり知っているか知らないかという極めて単純な違いしかない。知っていれば教えることができるし、知らなければ教えてもらうことができる。その意味であれば、教える側も教えられる側も、単にフラグが立っているか否かだけの違いでしかない。これなら先輩で経験が多ければ、誰でも教える側に立つことはできるワケだ。19世紀、20世紀の公教育における「指導的立場」とは、たかがこんなものだ。教師と生徒は、本質的に質が違うわけではない。情報の量が違うだけだ。従って、教育のプロセスを経てフラグが立ったというだけで、教えられる側から教える側への転換が可能だ。その人間の品性や格といった属人的な問題は、特に考慮されることはない。

しかし、20世紀末の情報化・ネットワーク化の発達は、この「知識教育」としての教育のあり方を大きく変えるものとなった。インターネットの発達によるインフラコストの減少、それを前提とするオープンデータベースの提供。これらを前提とすると、今までのように「個々人のアタマの中に定型的情報のデータベースを構築する」やり方は、知の生産という面では必ずしも効率的なやり方とはいえなくなった。それはまた、今までの教育システム・教育制度そのものが目指してきたものが、意味を失ってきたということでもある。これからの教育とは、近代教育が特化してきた知識教育ではなく、その歪みを是正した本来の教育の姿としての人間性教育だ。

知識教育と人間性教育のちがうところ。それは、知識教育は知識のフラグさえ立っていれば誰でも教育する側に立てるのに対し、人間性教育は高い人間性を持った人でなくては教育する側に回れないという点だ。人徳のあるヒトしか、人間性を語れないし、ましてや人間性を育てることはできない。そして人徳とは生まれつきの高貴さであって、後天的な努力や金次第でどうにかなる要素ではないのだ。生まれつき人徳のある、選ばれた人であってはじめて、人々に徳を振りまくことができる。俗人、凡人では徳は説けないのだ。中国の歴史に名を残す賢者の足跡を振り返れば、これが元来の「教育」であることはすぐわかるが、今われわれの見ている「学校制度」としての教育とは大いに違うものであることも理解できるだろう。

真の人間教育は、人格者にしかできない。知識教育なら、誰にだってできる。そういう意味では、今までの日本の教育が悪平等教育に向かっていたのは、いわば必然の結果ともいえる。人間性を問われず、学校の成績だけでなれる高級官僚は、まさに悪平等の権化。彼らは、品性劣性で知識教育にだけ長けた人間だから、いろいろ不祥事を起こすのも当たり前。そういう文部省の役人が考えることだから、悪平等もむべなるかな。教育の荒廃を日教組に代表される教師のマインドの低さに求める意見もある。それも現実問題としてはそうなのだが、そういう人間に勤まる教育制度を造ってしまった無能な官僚に、より根本的な責任は求めるべきだろう。

悪平等教育の問題は、一歩でも人の上に出ようという気をそぐ点にある。努力しなくなるし、向上心を持たなくなる。人間、差があるから努力するのだ。社会というのは厳しい。基本的に「一番だけが権利を持つ」ものであり、二番以下は全て落後者だ。その分野では存在意義がない。だからこそ一番になろうと努力するのではないか。それが二番でも居場所を与えられるようでは、誰が向上しようと努力するのだろうか。まさにこれは市場原理のルールそのものであり、日本企業が軒並み「負け組」となり死屍累々なのに、ぶつぶつグチをこぼすしか手がないというのもむべなるかなというものだ。

その一方で、持って生まれた高貴さ、下賎さという「人間性」に目をつぶるようになってしまう。役人のように下賎で邪な「人間性」を持った人間は、権力を持っても結局は自分の懐のことしか考えず、風俗接待に鼻の下を伸ばし切った大蔵官僚のようになるのが関の山だ。自分が下賎な発想しかできないことを知り、それを恥じる心があれば、ああいう傍若無人なワガママなどできるわけがないというのに。これからは徳の時代だ。そして徳はある人間とない人間がいる。少なくともリーダーシップや社会への影響力という面では、徳のある人間しか勤まらない機能も多い。そういう意味での「徳のエリート教育」のための選別と育成を、社会全体が認め受け入れなくては時代がきているということができるだろう。

(00/06/02)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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