ファクトと一次情報
本来のジャーナリズムの役割は、ファクトとしての一次情報を正確に伝えることと、それに付随してどういう立場の人がどういう見解を持っているのかを両論併記できちんと示すことである。戦争でいえば、実際の戦場で起こっている出来事を客観的に示した上で、両陣営の主張を色や評価を付けずに伝えることである。そして読者・視聴者の側は、その一次情報を取り入れて咀嚼し、それを元に判断して自分の意見を持つことが求められる。
このように客観的に考えるための材料を人々に提供するのが、ジャーナリズムの役割である。色がついていてはいけない。色がついていては、洗脳するための独裁国家のメディアになってしまう。このようにどちらかの立場だけにに立って状況を伝えるのは、プロパガンダであってジャーナリズムではない。それはそれでメディアの役割としてはパブリシティー機能として決して間違いではないのだが、それは広告の一種であって報道ではない。
もちろん自由主義圏では思想信条の自由が保障されているので、ジャーナリストといえども何らかの自分の意見を持つことはかまわない。しかしジャーナリストである以上、自分の意見は一次情報を的確に伝えたその後で語らなくてはならない。このけじめが大事である。報道と評論は違う所作であり、報道機関たるものはこれをきっちりと峻別する必要がある。ここが最初からアジテーションのための言葉しか語らない「活動家」とは違うところである。
日本における近代的マスメディアの嚆矢は、明治時代の自由民権運動の機関紙に求められる。最初は完全なプロパガンダペーパーだったものが、憲法発布・議会開設により自由民権運動が公党となるとともに、江戸時代の瓦版からのイエローペーパー的な卑属な記事も扱うことで、商業主義的な「新聞」となった。しかしその出自は如何ともしようがなく、政治的な立場については旗色を明確にするという行動様式は、商業的なマスメディアとしての新聞になってからも続いた。
これには、近代日本の庶民の意識や行動様式も大きく関わっている。近代日本の庶民においては、江戸時代以来の「甘え・無責任」な付和雷同の行動様式と、明治以降の「追い付き、追い越せ」の一夜漬け教育の相乗効果で、自分でモノを考えることを面倒に思って避けるのが基本的・一般的になった。この影響で、一次情報を元に自分で考えることを嫌がり、ほどほどにまとめて教えてくれる二次情報の方をありがたがるようになった。
つまり色々な旗色を明確にした新聞があり、その中から自分が気に入った論調のものを選ぶというのが、大衆社会化をはじめた日本人の基本的なマスメディア観となった。それを前提に日本の「ジャーナリズム」は成り立っており、それが商業主義的に経営されている以上、必要以上にセンセーショナルに煽って感情に訴えることで売り上げを伸ばす戦略に走らざるを得なかった。これが戦後テレビ放送が実用化されてからのテレビ報道においても踏襲された。
昭和10年代の太平洋戦争に向かう時期、日本の大手新聞は戦争礼賛一色にそまって戦争への道を煽ったのは有名な事実である。当時エスタブリッシュされた保守的な有産階級はこぞって戦争反対であった。これに対し当時すでに革新といわれた労働者・農民はこぞって戦争を求め、マスメディアはそれを煽ることで販売部数を伸ばした。当時すでに普通選挙が実施されていたので、戦争への道を進ませたのは、大衆のポピュリズムとそれを煽ったマスメディアの責任である。
まあ歴史的経緯からしてこうなのだから、日本のマスメディアに自浄作用を期待する方が無理というものだ。21世紀の情報社会の到来とともに、オウンゴールで自滅してしまうのも宜なるかな。賞味期限切れの自家中毒を起こしているのだから仕方ない。幸いにも自己責任で情報を咀嚼できるディジタル・ネイティブ世代も労働人口で増えてきた。かくなる上は、日本でも本来のファクトと一次情報だけを伝えるジャーナリズムに満を持してご登場いただこうか。
(26/04/10)
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