左翼の本質





左翼とは、つまるところ知力を暴力に変える装置である。かつて人類が誕生して以来長らくは、暴力は腕力でしかなかった。武器や飛び道具が発明され、破壊力は拡大したものの、それはあくまでも腕力を拡大する道具でしかなかった。太平洋戦争までの「空中戦」が、戦闘機という強力な武器を駆使するものの、結局はパイロット同士の「腕力」対決の勝負であり、敵機を何十機も打ち破ったエースパイロットが存在したことがそれを示している。

その一方で、暴力志向の強さと腕力の強さは必ずしも関係しない。腕力が強くでも決して暴力で物事を解決することを好まない人も多い。そういう人はまさに抑止力としてしか腕力を捉えていない。他方でインテリでも暴力志向の強い人間はけっこういる。しかし彼等は必ずしも腕力が強い人間ではないことが多かった。古の人間社会では、対決は決闘にみられるように一対一が基本だった。このような状況下では腕力は絶対であり、暴力志向のインテリは涙を飲んだことだろう。

そのような状況が一変したのは、産業革命以降である。19世紀に入るとともに、富は収奪するものから生み出すものへと変わった。これにより多くの人々が爆発的に拡大する生産により生み出された富のおこぼれに預かれるようになった。中世においては生きてゆくので精一杯だった庶民にも、人間としての尊厳を取り戻せるだけの余裕が生まれてきた。ここに数多い庶民が社会の主役として登場する、大衆社会化の波がうねりだした。

大衆社会においては、集団の数の力がモノを言う。暴力の対決も、それまでの「遠からんものは音にも聞け、近からんものは目にも見よ」の個対個の対決ではなく、集団対集団の対決というスタイルに変わってゆく。これとともに暴力勝負は単なる一人での腕力比べではなく、集団としての総合的腕力の勝負に変化した。これはとりもなおさず、集団としての腕力をコントロールできれば、必ずしも自分が腕力に長けた人間でなくても強力な暴力をふるえるようになったことを意味する。

こうなると弁舌が冴え頭の回転が速い人間ならば、腕力が強くなくとも多くの人間を惹きつけることで、その数の力を集団の暴力として発揮することができるようになる。これにより腕力は弱くとも知力が優れていれば、集団の力を活用して結果的に強大な暴力を運用できるようになったのだ。ある意味経済や社会構造と同様、社会的な暴力システムというところでも、大衆社会の集団の力が発揮され、それが20世紀の到来とともに社会的暴力の主流となった。

まさに腕っぷしは弱いが知力に長けた暴力志向の強いインテリにとっては、千載一遇の好機の到来と映っただろう。この機を捉えて、数の力で権力を奪取できるのではないかと考えた権力志向・暴力思考の強いインテリが起こしたものが左翼である。そこで登場したのが元祖ポピュリズムだ。耳障りのいい美味しいう夢物語をまことしやかに語ることで、大衆をその気にさせて踊らせ、その力で権力を奪取するという可能性を最大限に活用するための手法である。

このように左翼というのは登場した時から、「まことしやかな嘘で、大衆を騙してその気にさせる」というメカニズムを基本にしていた。これは本質的に「嘘の上に嘘を上塗り」するものでしかない。左翼の大衆運動の本質がこのような「嘘」に基づいたものである以上、今に至るまで左翼が平気で彼我の間で事実を捻じ曲げてしまう習性があるのもムベなるかなである。ダブルスタンダードもブーメランも彼等の行動原理の本質に根差したある種のアイデンティティーなのだ。

その象徴とも言えるのが、毛沢東思想の頂点である「造反有理」だ。屁理屈でもいいから理屈が付けば暴力が正当化できる。その論理性を否定した論理こそ、左翼思想の本質を見事に表している。暴力を使って勝ちたいからこそ、暴力を正当化する理屈をこじつけ、数の力によってそれを権力に昇華する。権力主義者・暴力主義者たる左翼の本質をこれほどまでに表したものはかつてなかったし、今後も現れないだろう。21世紀に入り、彼等の理屈が砂上楼閣の屁理屈であることが明らかになった以上。


(26/04/17)

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