今こそマーケティングの極意を活かせ
マーケティングというのは、ある意味非情なものだ。市場というもの持っている「客観性」がそうさせる。水が重力で高きから低きへと等高線を食い破るようにしてしか流れていかないように、市場の中では潜在的に存在する流れに沿った形でしかモノを売ることはできない。それに竿を挿し、自分の思い通りに動かそうと思ってもびくともしないし、それを力尽くで実現しようとすれば、売り上げ以上のコストがかかってしまい、ビジネスとして成り立たなくなる。
それゆえ、理屈や思い込みではマーケティングはできない。市場のあるがままを知り、その導きに従って初めてマーケティングが成り立つ。常に正しいのはその時の市場の原理であり、絶対的な正解はあり得ない。Best Wayは時と場合によって変化する。環境次第では、真反対の道を取ることが結果的に収益極大化に繋がる。その潮目を読むためのノウハウ以上のものをマーケティングは与えてはくれない。経営学が実学と呼ばれる由縁でもある。
それはお客さんが、自分が欲しいものしか買わないからだ。そして欲しいか欲しくないかは、食うや食わずの貧しい時代はいざ知らず、選別が可能になった市場ではお客さんの気分の問題に帰着する。気分は定量化も客観的把握も不可能である。ある程度の母数が集まったときに初めて、統計的な傾向値として把握することができるだけだ。それをどう初期段階で見切り読み取れるかがマーケディングの極意である。だからこそお客さんの気持ちを知ることが原点となる。
そうである以上、上から目線ではマーケティングは成り立たない。何か「商いの王道」たる正解があって、それをひたすら追求しようとしても、それは大いなる間違いである。そのやり方ではビジネスの成功は手に入らない。そもそも正解が無い問いに対し、お客さんの気持ちになって、ひたすらそれに寄り添うことがマーケティングなのだ。王道はお客さんが喜んで買ってくれることに他ならない。これを日々実践し続けることがまさにマーケティングの極意である。
ひるがえって上から目線のマスメディアが忌避されてしまった理由を、このマーケティングの極意という視点から考えてみよう。ある意味マーケティングという概念から最も遠いところで、上から目線で大衆を眺めてふんぞり返っていたのがマスメディアである。そのような上から目線で大衆に接する行動様式は、明治以降の「追いつき、追い越せ」から高度成長期に至るまでの間、日本社会のいろいろなところで見られた、近代化のプロセスにおいてはむしろ一般的な様式であった。
その典型例が、日本メーカーの商品戦略である。日本の製造業に多かったプロダクトアウトでの商品戦略は、メーカーにおける「上から目線」の経営戦略といえる。自分が思う「いいモノ」を安く大量に投入すれば、必ずユーザーはついてくるという思い込みだ。確かに、市場が貧しく物に飢えていた高度成長期ならばそれも成り立った。そしてそれが唯一の成功体験だった日本の大メーカーの多くは、マーケティングの何たるかを知らないまま、競争激化する市場の中で討ち死にしていった。
これと同じ轍を踏んでいるのが、日本のマスメディアである。上から目線で下々に情報を「下賜」しているような振る舞いをしている内にミイラ取りがミイラになり、自分自身「輿論を動かす偉い存在」と思い上がるようになってしまったのだ。確かに世の中が情報や知識に飢えていた時期なら、上から目線のふんぞり返しであっても、人々は受け入れそれで成り立ったかもしれない。しかしそこに安住している間に世の中が変わってしまった。まさに茹でガエルである。
きちんとマーケティングができるメディアなら、今でも充分にビジネスとして成功できることは、Netflixなどのコンテンツ配信サービスが示している。そしてNetflixがWBCの中継をする際、地上波放送局の日本テレビを制作プロダクションとして使ったように、既存のマスメディアが持つ専門性のある独自のノウハウやコンピタンスはまだ充分通用する。その違いを生み出しているのは、横から目線で企画できるマーケティング発想の有無である。マーケティングの視点を持てるか。それが日本におけるメディアの生き残りのカギと言える。
(26/04/24)
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