暴力衝動
何でもいいから、とにかく目の前にあるモノをぶっ壊したい。人は不満やストレスが溜まって自暴自棄の状態になると、そう思いがちである。確かに破壊活動というのはモヤモヤがスッキリするストレス解消に繋がるし、本質的な解決にはならないが、ガス抜きの安全弁としては効果がある。まあ赤ん坊は不満があるときに泣きまくって、それである程度発散するとスヤスヤ眠りだしたりする。それをみてもこういう爆発的ストレス発散は人間の本能に組み込まれたモノなのだろう。
だからこそ現状への不満があるとき、そのストレス解消は破壊活動に向かう。60年代末の若者革命の一つの到達点となった学生運動。そこではゲバルトと称して暴力礼賛がまかり通っていた。戦前の日本における無産者と呼ばれた労働者・農民のポピュリズム的な戦争支持。これもまた持たざる者故、いっそのこと全部破壊し尽くしてしまったほうがいいだろうという願望が根っこにある。ワケのわからないエネルギーの源は、みなこの破壊願望にあるのだ。
日本では法律的に困難だが(条件が合えば不可能ではなく、実施例はある)、アメリカでは日常的に行われている爆破による建物解体。あの起爆装置のスイッチを入れるというのも、相当に痛快そうだ。わざわざ射撃しにグアムやハワイに行く人もいるが、あれも根底には破壊願望がある。これもいっそのこと銃殺刑も民営化して、人をターゲットにして銃を撃てれば、相当なストレス解消になるだろう。そこまで大それたことをしなくても、小さな破壊でも気分は晴れる。
イライラするときに、思い切りガラス瓶を投げつけて割ると、かなり爽快になって気が晴れる。蝿やゴキブリなどが現れた時、思いっきり蝿叩きやスリッパで叩いて撃滅するときに、得も言われぬ恍惚の快感を得ている人もけっこういるだろう。とにかく、どんなレベルであっても破壊は生理的にとても気持ちいいしストレス解消策になる。これはもう本能に属する生理的なものであって、理屈を越えている。逆に社会性を持たせるために理性によりその衝動を抑えているのが人間だ。
左翼の人は基本的に自分の置かれている現状に不満が多いという特徴がある。まともな人間なら、現状に不満があるのなら、その不満を解消すべく自分なりの努力をする。しかし彼等は能動的に何かやるのが苦手な何でも他責の人だけに、自助努力もせずに、すぐに「社会が悪い」となりがちである。結局は自分の性なのだが、自分を見つめて熟慮することができないだけに、不満は全て他人のせい社会のせいということにして、自分を被害者・弱者のポジションに置きたがる。
となるとその不満を解消するためには、その先には暴力しかないのは人間の性だ。このように他責と暴力志向は表裏一体の関係にある。というよりいつも指摘しているように、類人猿の頃から脈々と受け継がれてきた暴力によるストレス解消を求める性格が、大衆社会の到来とともに数の力による正当化というお墨付きを得て、ひとまず公然と行えるようになったのが、左翼であり社会主義・共産主義の本質である。単にストレス発散のための暴力・破壊の正当化の屁理屈でしかない。
ある意味内向きな性格の人にとっては、暴力というのはストレス解消の唯一の出口ともいえる。イジメが人間の本能ともいえるのも、同じ理由による。自分の問題を自分自身の問題として捉え、自分の中で解決しようという自助努力ができなかったり、面倒でしたくなかったりする人は、他人を攻撃することでその矛盾から目をそらし、表面的なストレス解消につなげようとする。一人でこれをやったら単なる迷惑行為だが、集団で理屈をつけてやれば「正義」として正当化できる。
自助努力せずに他責で生きるのも、他人に迷惑をかけない限りは自由である。他責の人は結果的に他人にしわ寄せを押しつけ、結果的に迷惑をかけてしまうから社会の癌になるのだ。と、そこで思うのは21世紀が情報社会ということ。人間にしわ寄せするから胡散臭がられるのであって、コンピュータに面倒見てもらえば誰も迷惑しない。ここは一つAIの出番である。AIにこういう人達の面倒を見てもらえばいい。とはいえ結果的に「コンピュータに使われる人」となるのがオチなんだろうが。
(26/05/01)
(c)2026 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる