窮鼠猫を噛む





戦いで損耗が大きくなるのは、古今東西を問わず大勢が決して雌雄が決まってからである。両者が均衡して一進一退を繰り返している時は、どちらか一方のみが大敗するということがないため、それほど大きい被害を出すことは少ない。勝負の女神が微笑み出すと、「負け組」は次々と撃破されてここから甚大な被害を受け始める。さらに後が無くなった「負け組」は、「もはやここまで」と自暴自棄になって、無謀な自爆テロ的な攻撃を仕掛けるようになる。これが組み合わさることで両軍ともに大きな犠牲を生むことになる。

こういう先を考えない戦い方は、勝った先のことを考えなくてはならない「勝ち組」にとっては極めて脅威とならざるを得ない、受け身に回ってしまうことからそれなりに被害が拡大する。太平洋戦争の末期の南洋諸島の攻防では、負け組の日本軍も徹底したゲリラ戦で抗戦したため、米国海兵隊も多くの犠牲者を出すことになった。結局どこかで最期の時はやってくるのだが、「負け組」が理性を保って「これ以上戦っても無駄だ」と判断した場合に比べると、どちらの側も被害が大きくなることになる。

こういう時に劣勢な方が取るのが、いわば「窮鼠猫を噛む」戦法だ。そもそも自分達が勝機から遠ざかってきているのは、実際に戦場で戦っている当人が一番強く感じていることだ。そうなるともはや相手に勝つことは考える余裕がなくなる。戦略的な目標を見失なってしまい中長期的な発想ができなくなるとともに、リソースの残りも少なくなってきているのを目の当たりにすると、当面の短期的かつ戦術的な成果だけが目的となってしまう。

その結果なるべく相手にダメージを与え、足取りを遅くさせるという目的だけのために、全てを投入して戦うことになる。それは、最後の最後に置かれた人間としては自然な気持ちであろう。もう、生きては帰れないけど、一矢は報いたい。なら、どうせ死ぬならもろともだ。こういう意識である。人間最後の極限に置かれると、「もう死んだ方がマシだ」と思う。そのとき、どうせ死ぬなら道連れに戦果を残した方が、飢えて死ぬよりまだマシだ。それは至って人間らしい生き様の発露である。

それとともに、今あるリソースだけを前提にどうするかという判断しかできなくなるため、それが尽きる時は自分も尽きる時だとデッドエンドな将来像しか描けなくなる。これもまた人類の歴史が語ってくれるが、閉じた系を前提にした籠城作戦には自滅しかない。助かる道がない以上、自軍の最後の反攻、どれだけ敵を引き留められるかという戦術的な目的しか残っていない。そうであればこそ、最後の手段として特攻作戦や自爆テロが自然に行われるのだ。

これは何も戦場だけで起こる特殊な状況ではない。組織間のあらゆる対立的な局面で、均衡が崩れ雌雄が決されてつつある時には、劣勢な方はきまって継続性のない「窮鼠猫を噛む」戦術に走りがちである。まあ「悪あがき」ともいうのだが。マーケティングでも、優劣がはっきりした時には「名誉ある撤退」こそが最善の道なのだが、体力消耗の値引き合戦に走りがちである。特に戦略的判断が苦手な日本のメーカーは、そういうドツボに自ら身を投じがちだ。

この数年で退潮が著しい野党・左翼・リベラル・マスコミが、自分の立場がヤバくなればなるほど、自ら浸かっている泥沼を深くするような泥縄的対応をしがちである。おかげで自らの死期を早めてくれているので、皮肉にも最後に世のためになっているといえなくもないが、このような行為は、まさにこの「窮鼠猫を噛む」現象と同じ原因により引き起こされたものである。それは言い換えれば、彼等がもはや断末魔ということを広く天下に知らしめていることに他ならない。

しかし、彼等は対立する相手に向かって攻撃しているつもりでも、全く相手にはダメージを与えることはなく、ブーメラン効果で相討ちしてどんどん墓穴を掘るばかりである。これは、もともと彼等が戦術的にも稚拙で、有効な武器を持っていないことに起因する。そういう意味では、負け組が最後の力を振り絞って相手を攻撃している気になればなるほど、自分の居場所がどんどんなくなっていく。善良な国民はただそれを傍から眺めているだけでことは済む。なんとも有難い話ではないか。。


(26/05/08)

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