「真のリベラル」を復権せよ
21世紀に入って、世界的に左翼・リベラルを自称していた人達が、全体主義・権威主義の信奉者であることをあからさまにするようになってしまってからおかしくなってしまったのだが、リベラルの本来の意味はその正反対であるはずだ。リバタリアニズムが究極のリベラルであるように、本来のリベラルは「なんでもあり」なことを良しとする考え方だ。ある意味、これは長らく左翼がその本質を隠すためにリベラルを装ってきたことに起因する問題だ。
世の中には規範はなく、本人の信じるものが基準になるべきだというのが、元々の意味でのリベラルだ。自分の信奉する主義主張だけが正しく、他の考え方は邪悪であるという一神教的な考えに固執する左翼が本来の意味でリベラルであり得るわけがない。その対極にあるであろう、それぞれの人が持つ基準はお互いに不可侵で、互いの城に篭って守っている分には、不干渉でそれぞれ勝手にやろうというのが、最もリベラルな考え方だったはずだ。
フェミニズムだって今は女尊男卑の権威主義的な主張になってしまったが、半世紀前の昔は、ウーマンリブとか呼ばれ「好き勝手にさせろ」というのを既成の社会的価値観に対して突き通すことが本質だった。ドラッカーが「断絶の時代」と呼んだ60年代末から70年代初頭にかけてのYouthquake(若者革命)も、既存の価値観の押し付けを嫌った当時の若者が、まさにリベラルで多様な価値観の併存が必要であることを主張して起こったものである。
確かに当時の社会においては、西側の国々においてさえ多様な価値観の存在が認められず、倫理的に正しいとされた伝統的価値観に合わないものは社会的に否定されていた。ビートルズでさえ、アメリカにブリティッシュ・インベージョンとしてブームを巻き起こした時には、リアルタイムで激しい排斥運動に見舞われたぐらいである。まさに、そういう時代においてこそ真の意味でのリベラルが求められたのだ。左翼は自分達もアウトサイダーだったからこそ、その考え方を窃取したに過ぎない。
さて、私の家の前はある大学の通学路になっている。授業時限の変わり目になると、夥しい数の学生がそこを通ってゆく。そして全く交通量がないのに、信号のある交差点が家の前の道のすぐ近くにある。最近の学生はとにかく疑いもせずにルールを守っていればいいという考え方なので、そこで車も来ないのに赤信号だと何十人といる学生がじっと信号が緑に変わるのを待っている。こちらは、おかげでその時間帯は車を車庫から出せない。
彼等は自己責任で行動できないのである。ルールに従うことで「誰か」に守ってもらいたいのだ。リベラルとは、本来「自己責任で、自分の自由に生きる権利を担保せよ」という主張であるはずだ。こういう時代になってしまったからこそ、リベラルの本来の意味が見失われてしまったのではないか。リベラルとは、自己責任において力強く生きてゆこうという宣言でもある。正解がない(正解はAIに任せられる)世の中になったからこそ、時代は自己責任で行動することが必要になっている。
弱者である我々に補償を与えろというのは、リベラルでもなんでもない。自分は自分の好きに生きる権利があるし、それは自己責任で担保するからやらせろ、というのが本来のリベラルだ。そしてそれこそ、情報社会を生き抜いてゆく人間に求められる最大の能力である。リベラルという言葉にクソミソな色とイメージがついてしまっているのなら呼び方はなんでもいい。情報社会においては言葉ではなく実態として、自己責任において他人に迷惑をかけない限り何をやってもいい世の中になる必要がある。
そういう意味では、新自由主義の方が元来のリベラルに近い。全て自己責任で行動して、その責任を自分が負うのであれば何をやってもいい。情報社会においては人間の役割は新たな可能性にチャレンジすることである。過去の実績から正解を出すのならAIの方が圧倒的に強い。向こう見ずな蛮勇を自己責任で振るうことこそ、人間の役割とされる時代になる。これこそが本来のリベラルの精神ではないのか。呼び方はなんでもいい。真のリベラルな精神を復権することが求められているのだ。
(26/06/19)
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