精神論至上主義者の憂鬱




精神論というのは、基本的に敗者の最後の拠り所である。戦況が厳しくなり出した頃からにわかに湧き起こり始め、敗色が決定的になるとほとんど精神論一色になってしまう。もちろん戦うためのリソースが決定的に欠乏してしまうので頼れるものが精神論しかなくなるということもあるのだが、それ以前でも劣勢になってくるとどうしても腰が引けてしまうので、それを補う意味でも精神論が重視されがちだ。しかし精神論というのは現実を直視しないことにもつながる。

最初はあくまでもメンタルな弱さを見せないための手段として、残った力を振り絞るための応援団として導入されるわけだ。確かに若干劣勢だがまだまだ作戦の立て方によっては充分四つに組んで戦えるというときなら、「やる気」で若干の劣勢を補うことも可能だ。しかしこれを一旦取り入れてしまうと、現実にはジリ貧になっていたとしても、決まってミイラ取りがミイラになって「精神論があるから大丈夫だ」の神の声に変形してゆく。

劣勢になればなるほど、物理的な強みが失われてゆくわけなので、頼るべき実態がなくなってくる。そうなると残された頼れるものは「空元気」しかないからこそ、精神論が声高に主張されるようになるのだ。しかしもはやこうなると合理的な判断は不可能になる。戦闘でもスポーツでも、戦いにおいて必要なのは客観的な状況認識と、それに基づく冷静な判断である。まさに精神路運が跋扈することで、この戦いにとって最も重要な要素がスポイルされてしまうのだ。

古今東西の戦いにおいては、実質的な雌雄が決してからの方が被害・損失が大きくなるというのも、負け戦になると程度の差こそあれ、この実態のない「精神論」が正論になってしまうからだ。客観的に見れば勝ち目のない「素手で肉弾攻撃」のような状態も、「精神論」しか拠り所がなくなってしまったからこそ起こる現象である。この状態になるとどんどん墓穴を掘ってゆくこととなる。落とし所がなくなるので、止めるに止められなくなる。

「死なば諸共」という、最期は敵も道連れにする発想など「精神論」の行き着く果ての典型だろう。どうせもう助からないのだから、せめて敵を道連れにして最後の「戦果」を上げようという発想だ。これはこれで確かに戦術的・ミクロ的には目的性・合理性が皆無とは言えないが、戦略的・マクロ的には極めて無意味なやり方と言わざるを得ない。スポーツで言えば、精神論で1点をもぎ取ることはできるかもしれないが、精神論では勝つことはできないということであろうか。

さて、去年ぐらいから左翼・リベラル系の野党が断末魔である。それはそれで思想信条の自由なので「ご勝手に」なのだが、その末期的な症状の中で彼等が「精神論」しか拠り所がない状態に追い込まれていることが見て取れる。全く合理性も普遍性もない彼等の身勝手なドグマに固執し、それを振り翳して周りに迷惑をかけまくることで、かろうじて自我のバランスをとっているような、本当に迷惑な末期症状を示しているといっていいだろう。

自らかつての支持者が離反してゆくような、社会性のない暴論としかいいようのない主張を行い、それでみんなが迷惑することでしか自分のアイデンティティーの確認ができなくなっているのも、この「自分達だけが正しくて、他はみんな間違っている」という根拠のない精神論的な主張のなせる技である。確かに左翼・リベラル系の野党は、進駐軍の占領下を除くと常に劣勢の側にいた。それゆえ客観的な戦略ではなく精神論が支柱となっていたというのは納得できる。

これも、劣勢とは言えそれなりに支持者がいて存在意義が認められていた時代なら、まあ許されたことだろう。しかし社会的な存在意義が薄れてしまっても、「精神論」に固執していると「茹でガエル」になるのも仕方がない。スポーツでも精神論を脱した種目から世界的アスリートが登場したではないか。まあ頭の硬いご老人達ばかりだし、あと数年で鬼籍に入るのだろうから、放っておけばいいのだろう。政党ではなくセクトとみなして、特別扱いしなければそれでいいのだ。


(26/06/26)

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