サンクコスト
AIで置き換えられる仕事の最たるものが、20世紀の産業社会においては秀才エリートが就いていた数々の職務だろう。官僚や企業のホワイトカラー、士業や教員に代表される資格といった仕事は、前提としてそれなりに知識を勉強することが求められた。しかし、それはAIが最も得意とする分野であり人間は到底及ばない。それゆえ多くの秀才エリートは職を失うことになる。
そういう事情があったので、かつての産業社会においては秀才エリートの証として学歴や偏差値といったものが指標として重要視されていた。高学歴や高偏差値であれば、それがある種の社会的なパスポートとして通用していたため、これを手に入れることが20世紀においては社会的な成功を得るためのカギとされていたし、そのために多大なリソースとコストをかけていた。
まあ昭和においてはそれなりのパスを通ってきた自分の経験からすると、高学歴や高偏差値学卒の人材の中には二つのタイプがある。中には格段の努力や勉強なしにスルりと関門を潜り抜けてしまう人もいた。しかし秀才エリートの多くは勉強と努力の結果として、苦労の末に高学歴や高偏差値を手に入れたタイプだ。そういう人達のために産業社会の時代には塾や予備校が繁盛していた。
昭和時代の偏差値の高い大学では、この二つのタイプが入り混じっていたという記憶が鮮烈だ。前者のタイプは、自分も含めてほぼ都市部の中高一貫進学校出身者に限られるといっていい(もちろんそうい学校の卒業生にも後者のタイプはいるが)。それに対し地方出身者は後者のタイプがほとんどだった(前者のタイプも皆無ではないが少数いた)。
前者のタイプは大学に入ってからもあまり勉学にはいそしまず、70年代当時にわかに勃興してきた「青春」のイノベーターとしてサークル活動やシティーライフを満喫していた。勉学は卒業に必要な単位が取れればいいという姿勢だ。その一方で後者のタイプは真面目に勉強して、なるべくいい成績を取ろうという学生生活を送っていた。この落差が青春の充実度の差となっていた。
後者のタイプは、勉強と努力で積み上げた蓄えをベースに、社会人になってからそれを回収しようという生き方であった。その分、学生時代も成績表にSやAを積み上げるべくストイックな生活に耐えて甘んじていたのだ。確かに高度成長期まではその方程式は成り立った。頑張って我慢していれば、その分後になって報われる構造があった。
その仕組みは徐々に崩れていった。1980年代から優秀な人材は高級官僚にはならず、皆民間を目指すようになったところからその萌芽が見て取れる。それとともに、高級官僚とは天下りを狙う「財産が偏差値しかない」人が目指すものとなった。当時の大蔵官僚が、それまで遊んでこなかったツケで接待で連れて行かれた「ノーパンしゃぶしゃぶ」にハマったりしたことがこの変化を如実に語っている。
そしてついにAIの登場により、全社会的に秀才エリートは不要なものとなった。ここに至って真面目な学生がコツコツ積み上げてきた勉強と努力は完全にサンクコストと化した。必死になってやってきた努力は、実は「無駄な努力」だったのだ。多分、当人は認めたくないだろうがこれは如何ともし難い。知識に対してはコストは支払われない世の中が情報社会なのだ。
それゆえ勉強と努力に明け暮れてきた秀才エリートの成れの果て達を、なんとか怒らせずに宥めすかすことが、真の社会の情報化のためのカギとなるのはいうまでもない。奴らは現状それなりのポジションを持っているだけに抵抗は大きいだろう。まあそれを納めるのは、多分何かのメリットを得るために勉強と努力をしてきたという発想から、勉強と努力が趣味だったんだと思わせるところにあるのではなかろうか。
それには「家元制度」のような勉強と努力の仕組みはいかがだろうか。世の中で「なんとか道」と呼ばれる世界には師範制に基づく家元制度がつきものだ。ヤマハのエレクトーン教室など、それをビジネスモデル化してしまった日本ならではの商売だ。一生勉強と努力を続けるとステータスが上がり、マルチ商法のように今度はステータスを与える側になれる。
こういうシステムで、生涯学習を続け位階が上がってゆくと、それに従ってその世界での「権威」が与えられるようにする。旧来の教育システムは、こういうマルチ商法的な自己満足的ではあるけれども自己目的的な生涯を賭けた学習体系に昇華して仕舞えばいい。それで新しい時代にそぐう人材を育てるシステムは全く新規に構築する。これで世の中は平和に収まるのでは。
(26/07/03)
(c)2026 FUJII Yoshihiko よろず表現屋
「Essay & Diary」にもどる
「Contents Index」にもどる
はじめにもどる