主義主張と批評の違い
オールドメディアが「マスゴミ」と批判されるのは、「主義者」や活動家と同じレベルで素朴な「お気持ち」を語ってしまうからだ。それも偉そうに上から視線で。そもそも単なるプロパガンダと批評の違いは、相手の主張をきちんと読み込んでいるかどうかにある。ひとまず相手の意見を客観的に受け入れた上で、それについて語るのがジャーナリズムの基本だ。必要とあれば、左翼の主張ならば「資本論」というように、その原典にまで当たって読み込む。
このように批評というのは、きちんと相手の意見のバックグラウンドや論理構成を理解した上で、いいところはいい、おかしいところはおかしいと是々非々でその構造を分析することから始まる。ある意味、学術的な議論と同じスキームである。感情を排して、極めて客観性を担保してひとまず相手の意見を理解する。その上であらゆる資料や過去のデータを駆使してその妥当性と問題点をあぶり出す。このクールさがなくてはジャーナリズムとは言えない。
まさにジャーナリズムとは、好き嫌いという感情論ではないロジカルな世界のものでなくてはいけないのだ。だからこそ公正で説得力を持つ。理系の人ならわかると思うが、これは「論文の査読」と同じだ。筋が通っていることはもちろんだが、それ以前の前提の部分についても客観的で第三者による再現性を担保していることが求められる。学術論文の場合、論理構成はしっかりしていても、その前提になっている「公理」の部分に無理があるという判断もある。
もちろん単なる好みの問題、生理的な嫌悪の問題ということを主張することもできるが、それはそれで論理的分析以前の問題である。文章から嫌い・苦手だというのはわかるが、それは単なる個人的な問題を語っているに過ぎない。そのような内容の論文が出てきたとしても、論理的な分析の対象以前だと切り捨てることになる。しかし文系の論文では、社会学とか実際にこのレベルの「お気持ち語り」のものがまかり通ってしまっていることも事実だが。
ジャーナリズムがジャーナリズムたりうる理由は、その論旨が「批評性」を担保しているところにある。好き嫌いの感情論に、同じレベルの感情論で口角泡を飛ばすのではなく、自分の意見は違っていたとしてもそれをストレートな感情としては出さず、客観的で論理的な分析を行うのがジャーナリズムである。だからこそ、共感性や納得性を生むのだ。これができないジャーナリストは、査読に通る論文をかけない学者と同じ意味で「失格」と言わざるを得ない。
もちろん好き嫌いをストレートに語った文章を発表するのも、主義主張の自由であり尊重されるべき権利である。しかしそれは「お気持ち」を語るエッセイであり、ジャーナリズムたり得ない。文学作品でとしては成り立つと思うが、それ以上のものではない。小説とかと同じで、共感する人もいるかもしれないし、反発する人もいるかもしれない。文芸ならばそれでいいし、多くの人に広く共感を呼ぶ作品もあれば、一部の人だけに深く濃い共感をもたらす作品もあるだろう。
問題は、そのレベルの「作品」しか書けないライターが、新聞社の名刺を持つだけでジャーナリスト然として振る舞ってしまうところにある。新聞には政党機関紙のようなものもあるし、新左翼の過激派でも機関紙は出しているので、別にそういう新聞があってもいいのだが、それはプロパガンダ紙であってジャーナリズムではない。だが現実に全国紙の中にも記事の多くがプロパガンダになってしまっているというものも存在しており、それが客観性として引用されたりする。
きちんとしたジャーナリズムなら存在意義があるし、それは社会的にも評価されるであろう。今からでも遅くはないので、過去を反省してジャーナリズムとして生まれ変われるのであれば、マスメディア企業でも生き残るチャンスはある。とはいえ、ジャーナリスト的視点を持っている「記者」は現在の「マスゴミ」には少ないので、人材の入れ替えは必須であろう。それをやる気があるかどうか。オーナーがいて純経営的な視点に立った判断ができるところでないとできないとは思うが。
(26/07/10)
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