虚構のアイデンティティー
嘘であっても、それに固執するしか自分のアイデンティティーを持てない人がいる。その虚構は、最初は憧れのような夢物語だったのかもしれない。それを自分の心の中にひっそりと秘めている間はまだしも、一旦外にそれを語ってしまうと嘘になってしまう。あくまでもそれは憧れであって虚構のものである以上、第三者から見ると現実ではないし、本人がそれを真と信じてしまうといつかは破綻が見えてくる。
まあ、後付けで帳尻を合わせられる範囲であれば、現状では無理でも「努力目標」として許されるであろう。実際、高い目標を掲げることで必死に頑張って成果を上げ、そこにたどり着くという事例も多い。幼児の頃は信じていたサンタクロースが、小学生ぐらいになると自然と存在しないことに気付いてしまうようなものだ。夢物語と虚構の違いはここにある。フィクションのストーリーでもそれを信じるしか自分の生きる道がなくなったときこの違いは失われてしまう。
そもそも妄想が激しい人は、自分が実際に経験したファクトと、妄想で作り上げた架空のストーリーとが、時間と共に混交しどっちがファクトでどっちがフィクションかの区別がつかなくなる。良きも悪しきも全部ファクトもしくは全部がフィクションというような「片寄せ」ならまだ可愛げがあるのだが、自分に都合のいい記憶はファクトもフィクションもどちらも「事実」、都合の悪い記憶は「虚構」という寄せ方になりがちである。
それはそもそも妄想が激しい人は同時に自己愛が強いことも多く、自分に都合のいい「記憶」の方を正解とし、都合の悪いものを間違いとして自己正当化(あるいは相手を貶める)しがちだからだ。こうして、自分に都合の悪い現実を受け入れ難い人は、嘘に嘘を塗り固めつつ現実から遠く離れたお花畑の中に逃避することになる。それを続けるともはや一般社会からは隔絶した、受け入れられないような論理構成になってしまうのだが、彼等にとってはそれがまた自分達の正当性の独自な拠り所になってしまう。
社会主義・共産主義は、もともとヴィジョナリスト哲学者としてのカール・マルクスが産業革命直後の社会の悲惨な状況を見て、人類の理想社会を夢物語として語ったものである。あくまでも「社会の理想形」であり、生産力の増加と共にそこに段々と少しづつ近付いていけるし、その不断の努力が人類社会を良いものにしてゆくというストーリーでしかない。それを恣意的にファクトとフィクションをごっちゃにし、すぐにでも実現可能なプロパガンダにしてしまったのがエンゲルスだ。
もともと哲学としての社会主義・共産主義と、政治としての社会主義・共産主義の間には、こういう意図的な齟齬の誤認が横たわっていた。それだけに妄想が強くファクトとフィクションを区別できない人が多く支持者として加わってきた歴史的経緯がある。ある意味「嘘に嘘を塗り重ねてきた」のが19世紀・20世紀の左翼の手口だった。そして支持者はそれを信じ、自分たちに都合の悪い事実は「そっちが虚構だ」と切り捨てることで、自分たちの「理想郷」を守ってきた。
こういう人達は自分の立場が悪くなってくると、それを客観的に認めることができないだけでなく、自分に都合のいい虚構のストーリーをさらにでっちあげて、その中に籠ることで保身を図るようになる。はたから見れば「頭隠して尻隠さず」というか。全く道理の通らない説得性もヘチマもない行動だが、本人の中ではそれで自分が正しくて周りが間違っているのだという信念を支える柱になる。もちろんエコーチェンバーの外とは話が噛み合うはずもないが、本人はそれで逃避できた気になっている。
結局、今の左翼の人達が世間一般の人々から見ると理解不可能な行動を取り、自らどんどん墓穴を掘って嵌ってゆくように見えるのも、そもそも彼等が「嘘」からスタートしたことの当然の帰結なのである。エンゲルス的な「政治としての社会主義・共産主義」が自己矛盾・欺瞞性からスタートしたがゆえに、必然的に抱え込んでいた「火種」がもう隠し切れなくなってしまったということに他ならない。彼等は自ら放った火によって、自らを滅ぼすこととなるだろう。なにも相手をすることはない。黙って消え去るのを脇から見ていればいいのだ。
(26/07/17)
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