千葉すず






シドニーオリンピック代表選考プロセスの不明朗さを提訴したことにより、千葉すず選手がスポーツジャーナリズムに限らず、マスコミの話題となっている。しかし、日本のスポーツ界、特にアマチュアスポーツの連盟のアホさ加減は今に始まったことではない。伏魔殿である競技団体の無策さは、誰が見たって常軌を逸している。それがめぐりめぐって、日本が国際舞台の大一番で勝てない最大の要因ともなっている。競技団体が「大舞台で勝つための戦略」を持ち、それにしたがって着々と結果を積み上げていかない限り、国際的な試合に勝てないのは当然だ。そして日本のスポーツ界には、その戦略がない。これでは勝てるほうがおかしい。

そもそもスポーツの選手としての素養と、競技団体のマネジメントに求められる素養は全く異なる。それ以前に競技フィールドの中でも、選手としての適性と、監督やコーチとしての適性は全く異なる。それは巨人の長嶋監督を見ていればすぐわかるだろう。もちろん、名選手でもあり、名監督でもあるヒトはいる。それはどちらかというと、指導者としての能力が優れていて、その能力を自分自身に活かすことで、自分のポテンシャルをあげたということになる。もちろん、選手としての潜在力は必要なので、結局はその人が二つの能力を持っていたということに過ぎない。

さて、アマチュア競技の団体は、往年の名選手が理事や役員を勤めることが多い。彼らは確かに名選手だったかもしれない。しかし、それは今の時代に団体のマネジメントに求められる能力や、先を見越してその種目の隆盛・反映を図る能力を持っていることとは何の関係もない。それどころかそういう人達は、今のようなスタッフも含めた総合力で勝負する合理的スポーツの時代ではなく、昔の原始的な本人の根性だけで闘えた時代の選手なのだ。自分自身、今の時代に生きていたとしても選手としては通用しないだろう。そういう連中が、つたない脳ミソで判断して運営しているのが実情なのだ。

このような理由で、アマチュアスポーツ界にはリーダーシップを発揮できる指導者がいない。だから勝てない。世界に通用しない。スポーツは、個人の根性勝負、体力勝負の時代ではなくなっている。力任せに勝負にでても、ムダにエネルギーを使うだけ。それでは勝てない。いかに「ウマく勝つ」か、「ズルく勝つ」かという戦略なしには、世界レベルの勝負にはついていけない。体力勝負が通用する種目もあるが、そういうところでは、もっと身体能力の高い選手の多い国が圧倒的に強い。先進国型の競技に日本がからきし弱いのはこれが理由だ。

しかし、団体トップにはそういうマインドも能力もない。いえるのは根性論だけ。だから大時代的な精神主義が跋扈してしまう。この問題はアマチュアスポーツ界だけの問題ではない。プロスポーツでもこういうマインドは多かれ少なかれある。それがプロであるにもかかわらず、プロになりきっていない部分を生む。そういう甘い部分で、この因習がアタマを持ち上げてくる。サッカーがプロになりきっていないのも同じ理由。ゴルフが世界に通じないのも同様。野球はプロとアマが対立している分、より悪い要素をアマが集中的に集めている感があるが、ではプロ側がすっきりと割りきれるかというと、そういうワケでもない。相撲の問題なども、国際試合がないから露呈しにくいだけで、やはり根っこに同様の傾向があることを示している。

百歩ゆずって、その分野で一芸には秀でていたことは事実だし、その面では優れた能力があったことは認めよう。しかしそれはあくまでも選手としての話。そういう連中に、現役時代の功績次第でマネジメントを任せてしまうというのは、とんでもない話だ。ビジネスではこんなことはありえない。人気者のタレントが、引退して皆タレント事務所の社長として成功するわけではない。どちらかというと、経営者としての才覚もある限られた人達だけに、第二の人生の成功が約束されているというほうが正しいだろう。

こういう例は、それこそどこにもあふれている。たとえば、デザイナーとして成功した人が、デザインオフィスの社長としても成功を約束されるわけではない。デザイナーとしての成功は職人としての手先の問題であり、経営判断や戦略性とは何の関係もない。同様のことは、こういう専門職ではなく、もっと一般的なメーカーの中でも言える。理系の技術者・エンジニアは、その技術者としての能力のままでフォローできる職階としては工場長がせいぜいいいところだろう。技術者出身のトップをいただくメーカーもあるが、それはその人がエンジニアとしての才能の他に、経営者としての才能を持っていたからこそ、経営幹部にはなれたのだ。技術者としての能力とは別だ。これは一種のキャリアチェンジであり、いわば社内で転職するようなものだ。

よく考えてみると、こういう年功制度の弊害というか、人材のミスマッチはあらゆるところで見られる。実は日本中そうなんじゃないか。たしかに高度成長期なら、かじ取りは必要ないし、ある種の棚あげというか、ベテランの名誉職みたいなカタチで座っているだけでも結果オーライで経営ができた。官僚の天下りなどというのも典型的な例だろう。市場原理ともビジネスマインドとも関係ない世界でだけ生きてきた官僚OBが、経済界で判断ができるワケがない。しかし、利権さえあれば右肩上りの波に乗って楽して喰えたからそれが通用した。だがもうそういう時代ではない。

これからはリーダーの能力の有無が、何より結果にストレートに反映してしまう時代だ。リーダー足り得る人、かじ取りのできる人、マネジメントのできる人でなければ、いくら実績があろうが、経験があろうが、成功をもたらすことはできない。それぐらい、意思決定と判断が難しい時代なのだ。それに気付かない人には、レッドカードしかない。名誉職などいらない。ただただ御引退願おう。しかし、いちばん実力主義のはずのスポーツの裏っ側が、いちばん利権安住型というのは、皮肉というか必然というか。どちらにしろ、日本社会の悪い面がストレートに見え隠れしていることだけは確かだ。


(00/06/16)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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