建前と本音




アメリカにおいては、建国以来1960年代ぐらいまでは差別などは露骨にあったものの、概ね表面だけを綺麗に取り繕う「建前」はなく本音ベースの社会だった。ここが江戸時代以来常に建前と本音を使い分けてきた日本社会とは大きく異なる点だ。黒人や有色人種に対する差別、白人の中でもラテン系やユダヤ系に対する差別は、アメリカ社会ではヨーロッパの伝統を受け継ぎ公然とあった。しかしこれも本音むき出しの社会だからこそ、ストレートな差別があったと言うこともできる。

公民権運動などが活発化するとともに、黒人層の中にも高学歴な中産階級がうまれるようになった1960年代以降、隠然とした差別は残ったものの表面的でストレートな差別は憚られるようになった。この傾向はアメリカがベトナム戦争に敗北し、ドルショック・オイルショックで経済力が後退した1970年代以降、特に顕著になった。このような流れの中からPolitically Correct(PC)という考え方が生まれたが、これによって米国にも「建前」が取り入れられることになる。

誰もがそうだと思っていることではなく、誰もそれがいいとは思わないが、やはりそちらの方が「正しい」のだろうと多くの人が考えることで、表に出てくる発言と心の中の心情とが乖離して二重構造になる。これが社会一般として広まってゆくことで、建前と本音が生まれる。そう、建前とは「口から出たこと」であり、本音とは「心に思っていること」である。自分がそうは思っていなくても、社会的に正しいとされていることしか語らないようになるのだ。

このように建前と本音は、その生い立ちからして水と油であり、相容れないものである。いや、そもそも発言と心情が一致していて自由に語れるのなら、建前などというものが生まれてくることはない。「物言えば唇寒し」な状況になってしまったからこそ、口からは当たり障りのないことしか語らないようにしようということになり、「ええかっこしい」な建前が罷り通るようになる。いわば世を偲ぶ仮の姿だけが、社会的に認められた自分の姿ということになる。

この傾向が白日の元に示されたのは、2017年に第一次トランプ政権が成立する前提となった大統領選挙の時からだろう。どちらかというと共和党の中でもエスタブリッシュからは泡沫候補的に捉えられていたトランプ氏が、共和党の予備選挙で絶大な人気を呼び共和党の大統領候補となる。そして大統領選挙でも結果的に勝利して大統領の椅子に座る。この過程では全米的に「隠れトランプ支持者」が実は多く、彼らが結果的にトランプ大統領を就任されたと語られた。

これがアメリカで、建前と本音の乖離が誰の目にも明らかになった最初の瞬間だろう。まさにトランプ大統領の強さの秘訣は、この構造を見抜いていたところにあった。建前に飽き飽きし、PCの住みにくさに辟易してきていた貧しい白人層に対し、彼らの本音を初めて公衆の面前で語ったからだ。言いたくても言えない本音を語るトランプ氏は、それまでの建前しか語らないエスタブリッシュメントの政治家とは全く異なる「自分たちの味方」と映ったことだろう。

確かにアメリカでも建前を振りかざすことでバラ撒きを求めてきた左翼・リベラル層からすると、「本音を語るトランプ氏」は自分たちの欺瞞を露にしてしまうものとして許しがたかったことは理解はできる。本音と建前の二枚舌は産業社会だからできたことである。そもそも建前とは上から目線で「これが正しい」と決めつけることによって生まれるものなので、横から目線しか信じられなくなって上から目線が効かない情報社会になると、その構造が一変することはわかりやすい。

すなわち本音と建前とは、産業社会までの上から目線に代表される非対称型の情報流通を前提とした構造なのだ。横から目線の対称型の情報流通が基本となる情報社会ではもはやありえない。旧来のマスメディアがそっぽを向かれるのも、自主規制で放送禁止用語を作ることに代表されるような、自分だけええかっこしいの建前主義の正義感を振りかざすからだ。情報社会とはストレートに本音の世界。まだ時間はかかると思うが、これができないと21世紀の情報社会では生き残れないぞ。

(26/09/11)

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