「超文鎮型組織」への期待






日本は世界でも指折りの人口密度の高い国だ。たしかに頭数はあふれるほどだ。しかし、頭数の割に「人材」が限られているというもの、また日本の特徴だ。ヒトがいる割には有為な人材いない。特に顕著なのは指揮官としての器を持った人間の不足だ。もっと一般的に、リーダーたる人格、素養をもった人材の少なさといってもいだろう。こういうものを持っている人がいないわけではない。いるところにはいるのだが、その絶対数が極めて少ないというのが日本社会の特徴だ。これは日本社会の構造的問題であるが、その原因であると同時に結果でもある点が悩ましい。そして、21世紀に向かうパラダイム・シフトの中で対応が問われている。これを解決するには、構造的改革が必要だ。

もちろん人材を育てるというのも一つの答だ。しかしそれには時間がかかる。スピーディーに成果がでなくては意味がない。そうなると、答は一つ。こういう社会である以上、組織を機能させるには「超文鎮型」にするしかない。「超文鎮型」とは、全権を持った一人のリーダー以外は、全部現場という組織形態だ。リーダーの器のあるカリスマ性のある人物に、独裁的な権力を与える。すべての戦略的行動は、リーダーに判断を委ね、すべての現場はその命令の元に忠実に行動する。日本社会を機能させるには、その是非を問う以前に、こういうシステムが必要なのだ。日本という国をヤメるか、「超文鎮型」を取るか。答は二つに一つだ。

そもそも小市民的な発想では、戦略的判断はできない。そして、悪平等にならされた多くの日本人は、小市民的な発想しかできない。小市民的発想しかできない人間は、リーダー足りえない。このように、リーダーたる人間を育てようとしないのが日本社会の特徴である以上、数少ないリーダー足り得る人間をいかに活用するかという発想で組織を考えなくてはいけないのは必然の帰結だ。これは、欧米的な合理的な官僚組織の制度を持ち込んだ問題点ということもできる。官僚組織では組織上のレベルに対応した、中間マネジメントが大量に必要となる。

それぞれのレベルに応じて、自律的に目標に向かって最適なかじ取りができる人間。それが現場リーダーから、全体の長まで、それぞれのレベルに応じた能力を持って存在するからこそ、官僚機構も硬直化しない。それはそういう人材を社会的に育てているから成り立つ。しかし日本では、ポストにしおう人材がいない。戦略思考、大局判断ができる人間がいないし、育たない以上、その組織形態をそのまま持ちこんだのではダメだ。たしかに高度成長期のような右肩上りの時期なら、マネジメントなしリーダーシップなしでも組織運営はできた。だかそれは時代がラッキーだっただけのこと。困難な時代にはとても通用しない。

旧帝国軍隊の問題点も、ここに象徴される。旧帝国軍隊の組織論は、フランス、ドイツ、イギリス、などヨーロッパの軍隊を模範として取り入れたものだ。当然、優秀な中間リーダーたる人材がそれなりに豊富に育っていることを前提としている。しかし、外部から人材を集めた明治期はいざ知らず、それ以降自律的に内部で人材を育てなくてはいけない時代になっても、人材はいなかった。年功を積んだ人間は当然いる。だが彼らは、戦術レベル、戦技レベルのリーダーシップしか取れない小隊長レベルの人材が大部分だった。これでは、戦略判断を必要とされる職位をたくさん作ってしまった組織はマトモに動かない。。

その結果は皆さんご存じの通り。その予兆として、元来命令には絶対服従のはずの軍隊でも、旧帝国陸海軍では現場が勝手に動く現象がよく見られたという。戦闘中の軍隊では、全て作戦として指示はできないので、あるレベルの現場対応権限が与えられる。しかし大戦中の軍隊では、前線に展開している部隊が、現場権限を楯に命令を現場で勝手に解釈し、我田引水の内容に読み替えて、大暴走し、悲惨な結果に終わった例が多い。これが一方で虐殺や略奪のような、本来の戦争目的以外へのムダなリソースの浪費を生む。

他方、本来複数の部隊が有機的に連携をとらなくてはいけない重要な局面では、戦略目標を共有できず、せっかくの戦力を活かせないことも多かった。組織としての戦略ヴィジョンがないゆえに、戦略目標が立てられず、共有できない。するとそれをいいことに、現場は勝手な行動をする。まさにリソースを戦略目標から遠ざけるバッドサイクルにハマってしまう。戦略性を共有できない現場主義の弊害は、バックヤードの軽視にもつながった。戦略性がはっきりしていなければ、最前線以外の部隊、たとえば補給だったり、の重要性を理解することはできない。

戦いに勝つという目標の実現のためには、最前線以上にバックヤードが重要だ。全員が最前線にでてしまったら、負けたも同然だが、日本の組織は自律的な権限を与えると、すぐそうなってしまう。この面では日本の組織論は、戦後の官僚機構も、企業組織も、旧軍隊を越えるものではない。同じ問題を抱えている以上、同じミスをする。一部の識者はかなり前からこの問題点を指摘していたが、右肩上りの工業社会の崩壊とともに、誰の目にも明らかな問題となった。これを打破するには、超文鎮型組織の実現しかない。目標のために手段を選ぶのか。手段にこだわって目標を見失うのか。これは日本社会に突きつけられた最後の選択ともいえるだろう。


(00/06/23)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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