「会社の時代」の終焉






不思議なことだが、こういう時代になっても、就職の人気企業というのは歴然とある。会社に入って名刺を持ったからといって、それだけで仕事ができるほど甘くはない。会社に入っても、仕事ができるかできないかは、けっきょくは個々人の能力次第。企業より個人の能力が先に立つ。企業も個人の能力を使えてはじめて成り立つ。今やこれは常識だ。それでも人気企業に群がる、というのはどこかおかしい。この当たり前のことに気付いていないを人が、いまだに多いということではないか。少し考えてみよう。

高度成長期にはモノが不足していたので、何を作っても売れていた。別にオリジナリティーなどいらない。使えればいい。動けばいい。機能があればいい。そういう時代だからこそ、社員も頭数が必要だし、企業の数も多数成り立った。しかし、それは人類史的に見ても、極めて特殊な時代だ。一般的なものではない。ただ、この50年ほどそういう時代が続いていたので、「世の中はそういうものだ」という勘違いが常識化してしまっただけのことだ。

「その道」の才能を持った人間というのは、そうはいない。天才的な人間となるとさらにいない。たとえば、自動車メーカーなら、自動車作りやデザインに天才的な能力を発揮する人材がいなくては、ヒット車種、人気車種を生み出すことはできない。ナンバーワンメーカーなら、人材のスケールメリットでこういう天才を抱える可能性も高くなるし、実際に何人か社内にいるだろう。しかし中下位のメーカーではよほどの天恵に恵まれない限り、こういう人材を社内に見いだすことは難しい。これでは、製品のオリジナリティーや付加価値が問われる時代に、好業績を残すことさえおぼつかない。

近年の企業再編の波は、一つには株式マーケットの選択による集中化と考えられるが、もう一つの要因として、「スペックを満たした商品を出せばいい」時代から、「付加価値の高いものでなくては、高く売れない」時代になったことがあげられる。こういう商品を出すには、アイディアやクリエーティビティーといった能力のある人材が必要だ。だが、いわれたことをこなす人間だけのと違って、そういう人間は数が少なく、代替もきかない。個性の問題だからだ。それを企業として抱えるには、ある程度少数に集中化せざるを得ないということだ。

ソフト・コンテンツビジネスの分野では、これが一層明確だ。才能のある人間と、ない人間の差は大きく、なおかつ誰の目にもはっきりと見えてしまう。そしてその峻別は今に始まったことではない。たとえばテレビ局。当たり前だが、キー局に入社しさえすれば、誰もがヒットドラマを出せるプロデューサーになれるわけではない。才能がなくては、勤まらないのだ。才能がなければ、プロデューサーの名刺を得ても、地位を悪用して外部にタカることにしかできない。悪徳プロデューサーになるのがオチだろう。そして、そんなやり方が長続きするワケはない。

それ以前に、そういう適性がなさそうなヒトは、営業とか経理に廻されることが多いのが実情だ。とはいっても、営業でも経理でも、プロフェッショナルな仕事をするには、やはり才能が必要となる。そっち方面の才能があるのなら、これは適材適所ということになるが、箸にも棒にも引っかからないヤツはいる。そういう人達は、会社という「規模」の中で許される範囲で、余剰人員として抱えられることになる。そして、そのヒトが「余剰人員」であることは、誰の目にもはっきり見えてしまう。残酷だが、ソフト・コンテンツビジネスである以上、避けては通れない事実だ。

そして「経済のソフト化」と呼ばれるように、製造業やサービス業、すべてのビジネスの成功・失敗が、ソフト・コンテンツビジネスのように、それを企画・発案する人間の才能次第で決まるようになった。あらゆる企業で、「能力による人材の選別」が必要とされるようになる。付加価値を生み出す「個人が評価される必要な人材」と、いくらでも代替性のある「匿名的な数があればいい人材」とは、違うリソースとして明確に位置づけられるようになる。これが、能力主義、実績主義の真相だ。

才能があって、それを磨く努力を怠らず、その結果高い能力を持った人間なら、何も下手に出る必要はない。企業のほうからそれを求めてくる時代になるのだ。法人と個人が対等、あるいは個人優位の関係性を持つことで、パートナーとなる。能力のある人間は、こういうカタチで企業との契約関係を持つことになるだろう。その一方、コア・コンピタンスに関する能力のない人間は、企業としても基本的には抱え込みたくない。できるものなら、それ専門の会社にアウトソーシングするか、テンポラリーな人材の派遣で対応することになる。

21世紀の企業は、こういうクールな「社員」との関係を持たなくては生き残れない。だから、能力を持たない人間は、会社に入ったところでいつかお払い箱になるのがオチだ。甘い夢はみないほうがいい。人にはない個性や強みなど、ロクな能力もないくせに、「いい会社」に入っても、これからはなんにも意味がない。それ以上に、会社のほうから門前払いがいいところだろう。そもそも能力には、持って生まれた才能が大きくモノをいう。才能のない人間は、大きい夢など抱かず、自分の身の丈にあった人生設計を早くからすべきだ。世の中は、もうそういう時代に入っているのだから。

(00/07/21)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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