まったりとしたケイオス






世の中、段々刺激がなく、変化もない、ドローンとした空気につつまれてきている。これは別に景気の良し悪しとか、そういう問題ではない。黄昏感とか、そういう次元の問題でもない。それより、もっと能動的にドローンとしているといったほうが正しいのかもしれない。刺激がほしい、変化がほしいという気分が、すっかり薄れてきている感じ。それも、若い人間ほど顕著に。刺激を求めないだけではなく、強制的に刺激を与えても反応しない。粘度の高いオイルのようだ。かき回しても、ネバついてなかなか回せない。斜めにしてもなかなか流れ出てこない。これは、明らかに構造の違いの問題だ。程度の問題ではない。

メガヒットは出るが、ソフトコンテンツの売上は全体としては落ちている。利益率でいえば、もっと悪化しているだろう。携帯のせいで若者の財布が寂しいからといわれるが、それは結果論だ。携帯と競合して負けたのなら、それはエンターテイメントとしてそれだけ魅力がないというだけのこと。結果を原因にしたところで、負け惜しみ以外のなにものでもない。音楽業界自体がBGM的な音楽作りに傾斜していることも確かだが、それ以上に音楽というものが一般の若者にとっては「金を出しても欲しいモノ」ではなくなっているのだから仕方ない。

ゲームソフトの売上も頭打ちとなっている。PS2に至ってや、今やハード一台に対しソフトの売上は二本も行かない状態だ。ファミコン以来のソフトの口銭で儲ける「任天堂スタイル」のビジネスモデルも、黄信号が点っている。実際任天堂の次世代機は出すか出さないかという議論さえあるようだ。もっとも、引き出しの多い人は違う。PS2が発売されてから、DVDの映画ソフトがブレイクした。確かにソニーグループとしては、そっちでも儲け口があるのだから、それも悪くない選択かもしれない。しかし、ゲームソフトメーカーにとっては地獄の入り口であるのは言うまでもない。

世の中の尻が重くなって、なかなか動きにくくなっているのは確かだし、それは若い層ほど顕著な傾向だ。いわゆる団塊二世以降の世代は、まるで自分の部屋の中でゴロンと転がったまま、コタツやフトンの外に出ようとしない、とでもいえるようなライフスタイルが基本になっている。刺激には反応しないし、新しい刺激を求めようとしない。手を伸ばせば寝たままで届く範囲ですべてをすませようとする。それがいくらおいしい店でも、電車に乗って食べに行くぐらいなら、近くのコンビニの弁当のほうがいい。どこかの評論家が、最近の若者の生態を「まったりとした生活」と評していたが、実際その通りだと思う。

当然彼ら、彼女らは、クリエーティブであることを志向しない。クリエーターよりは消費者のほうが楽で楽しいことを百も承知だ。これまた当然の帰結として、自己向上の努力をしないのも特徴だ。努力してレベルアップしてはじめてできることをするぐらいなら、今の自分でできる範囲で楽しめることしかやらないほうがいい。なにごとについても、ごろごろ寝転がったまま、現状の枠組みの中でしか対応しない。そういえば最近の若いバンドは、どれもおしなべて楽器がヘタだ。昔だって、プロといえどもピンキリだったのは確かだが、最近のヤツは余りに基礎力がないのが多いぞ。

もちろん、トップレベルのプロフェッショナルについていうならば、今も昔もハイレベルだし、そのレベルも変わらない。場合によっては最近の若手プロのほうがレベルは高いかもしれない。しかし、決定的に違うのが、トッププロになるには、オタクにも似た世捨て人の求道者とならなくてはいけなくなった点だ。仲間から白い目で見られ、いじめられようとも、仲間外れにされようとも、自分にはこの道を極めることしかない、と割りきれるかどうか。この試練は、本当にオタクになるか、あるいは親の道をつぐ二世・三世型か、どちらかでなくては耐えられないものだろう。

音楽に限らず、あらゆる技芸の分野において、かつては基礎技能力やテクニックにおいてはプロフェッショナルと変わらないハイアマチュアと呼べる層が確実に存在した。しかし、このようなハイアマチュアは消えてしまった。それが、強烈な個性のあるヴォーカリストがいればプロとして成り立つ「バンド」の分野で、メンバー不足という熾烈な問題として頭を持ち上げてきたということだろう。これはスポーツでも同じだ。かつては、アマチュアでも「国体級」みたいなハイアマチュアがいた。しかし今や、強いアマチュア、華麗なアマチュアは成り手がない。仲間外れになり嫌われるからだ。

音楽がうまい人間も、スポーツがうまい人間も、かつてはクラスやコミュニティーの仲間の中では評価され、人気もあり、当然居場所もあった。しかし、いまや集団の自己防衛本能のほうが上回っている。心の中ではそういう「スター」に憧れるところがあったとしても、実際の行動では「異分子の切り捨て」のほうに動かざるをえない。結果音楽やスポーツに秀でた人間は、イジメの対象になってしまう。これでは誰もそういう芸を磨く努力をしなくなってしまう。民主主義の極意を「平均的能力をもつ多数者を救うシステム」とするならば、まさにこの状況こそ民主主義の満開ということだろう。

それはそれでいい。まったりとした生活に、まったりとはまって、そこから抜け出したくないのなら、放っておけばいい。それがめぐりめぐって当人に何をもたらすかを含めて、世の中は自己責任なのだから。ただ、そいつらが向上心のある人間の足を引っ張ることだけは問題がある。どう生きるかは個人の自由であって、他人がどうこういえるモノではない。他人にまでまったりとした生活を押しつける権利は誰にもない。ここに一線を引けるかどうか、そしてその一線を守れるかどうか。これが日本の今後を考える上での生命線となるのは間違いがない。

(00/07/28)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる