変わらない本質






いまや20世紀を懐かしむ枕詞となりつつある、工業社会。その本質やエッセンスは、日本においては高度成長期に凝縮されていたといえるだろう。よりスピーディーに、より巨大に。それは目に見えるすべてが変化する時代だった。このように近代の工業社会は、変わることが基調だった。しかしその変化は、あくまでも量的な拡大に過ぎなかった。質的変化ではなく、量的変化だからこそ、変化を強調しすぎても問題にはならなかった。

その一方で、変わってゆく部分により大きなビジネスチャンスがあったことも確かだ。前のモノを陳腐化させ、新しいモノと代替させる。工業社会は、ハードウェアを売るビジネスの時代。ハードウェアには、そういうモデルが適していたということもできる。しかし、これからはコンテンツの時代だ。ハードやインフラがなくなるわけではないが、それらはコモディティー化してしまい、そこから付加価値は生まれない。おいしいビジネスチャンスは見込めない。

その一方で、付加価値はコンテンツにこそある。だからコンテンツの時代というワケだ。ちょっと古い言い方を使えば、ソフトの時代といってもいい。しかし、コンテンツのビジネスチャンスはハードウェアとは違う。マルチユースがコンテンツに代表されるソフトウェアの特徴。マルチユースできるモノほど、生み出す価値は大きくなる。従ってより多くの相手に対し、より長い間商売になることが、コンテンツでは大事になる。言い換えれば、変わらない本質にこそチャンスが潜んでいることになる。

よく例に出すので新鮮味がないが、コンテンツの本質をもっとも良く表しているものの一つとして「源氏物語」をあげることができる。男女の間で起こるいろいろな心の動き。それは時代や文化が違っても、同じ人間である以上変わりえない要素を持っている。源氏物語がエバーグリーンなのは、その本質的な要素をきちんととらえていたからだ。千数百年たっても、人間、変わらないところは変わらない。だからこそ、それだけの長い間、脈々と人々の心をとらえ続けてきたのだ。

しかし、この本質をつかまえるというのは、そう簡単なことではない。くどくど説明するのは誰にでもできるが、一言ですべての本質をいいきるのは難しいし、それができればコピーライターとして仕事になることからもわかるだろう。とくに今までの「変化」基調の世の中に慣らされすぎてきたヒトにとっては、どの部分が変わっていないのか、とんとかわからないことにもなりかねない。これが特に顕著に現れているのが、世の中のディジタル化、ネットワーク化に関する部分だ。

ディジタル化で変わる部分は、いわばコモディティー化してしまう部分。確かにここにもビジネスチャンスはあるのだが、それはスケールメリットを最大限に発揮できる立場になくては手に入れることはできない。そういうインフラ環境の整備をにらんで、今も昔も変わらず人々のニーズがあるコンテンツを提供することが、本当のビジネスチャンスにつながる。こういう時代だからこそ、変わらない本質をつかまえる必要があるのだ。

その一方で、情報化がテクノロジーをベースとして使うからか、これからの時代を語るときにも、ハードウェア的なビジネスモデルに不必要なまでにとらわれている人も多い。人間なんてたいして変わるもんじゃない。そして変わるところにはたいしたチャンスは潜んでいないのだ。それはe-コマースだって、ディジタルメディアだって同じこと。そんなツールが人間を変えることなどありえない。逆に、人間の本質をとらえずして、ツールの成功もない。本質は手段では変わらない。これをもう一度認識させてくれるのが、これからの歴史なのではないだろうか。

(00/08/04)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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