教育の限界






世紀末の混乱からか、教育の問題がよく語られている。しかし、教育とはあくまでも知識の問題でしかない。今問題になっているのは、人間としての質の問題だ。だが人徳、人間の器は先天的なモノ。実は教育によってどうこうできるモノではない。高貴な人からしか、高貴な人間は生まれない。いや、高貴な人間からでも、下賎な人間が生まれてしまうことだって多い。いわんや下賎な人間をや、である。ダメなものはダメ。その後の教育で救えるモノではないのだ。これはメディアや環境の変化では、人間の本質は左右されないのと同じだ。

そもそもこういう考えかたは、「人間努力次第でなんとかなる」という考えかたから生まれている。しかしこの発想は、工業社会の悪平等観を引きずったものだ。教育への期待を持っている人、教育が自分の至らなさを救ってくれると思っている人は、
他力本願の発想だ。自分でどうしようもないからこそ、何か外側に期待してしまう。従って中身のないヒト、自分ではどうしようもないヒトほど、教育に期待することになる。教育を受ければ、ひとかどの人間になれると思っている。

だからといって、教育が意味がないと主張しようとしているのではない。完備された教育システムなら、並以下の人間を並にすることはできるし、それはそれで充分意味があることかもしれない。その典型的な例は、米軍の教育システムだろう。知能、理解力も平均以下。英語が話せない、理解できない。こういう人間でも一応の戦力となるという視点から、全て図解によるマニュアルを作るとともに、銃器の構造そのものも、それぞれのレバーやボタンの機能が識別しやすいように作られている。バリアフリーの原点とさえいえるが、ここまで徹底すれば、一つの教育の可能性を示しているということもできるだろう。

一方その正反対のところに、音楽とかデザインとかの専門学校がある。こういう領域では、教育するということ自体が、そもそも自己矛盾をはらんでいる。それは、そういう分野で活躍するために必要とされる「アーティスティックな能力」は、生まれつきあるかないか決まってしまっているからだ。神様、阿弥陀様から与えられたモノがあるかないかという問題。だから、才能のあるヒトを「伸ばす」ことはできても、ないヒトには打つ手がない。伸びる人は伸びるが、伸びない人は伸びない。ないヒトには、所詮教えようがない。実は、これが教育の限界でもあるし、本質でもある。

産業社会の中でも、こういうアート的な分野やスポーツのような分野は、ある種の特異点だった。どんなに画一化が進んでも、ここは才能がモノをいう。匿名の主が、努力次第でどうにかなるものではない。天賦の才能を持った人間が、努力してはじめて成し遂げられる世界。基本的に、その特定個人の能力に依存する領域だ。しかし、人間の営みという意味では、こっちが基本なのだ。技術は教えられる。しかし、才能そのものを植え付けることはできない。才能を持っていない人間が努力だけ重ねても、そこにはむなしい世界しかない。努力すればするほど、事態は悪いほうに向かう。

クラシック音楽や美術教育のアカデミズムがどうなっているかを見ても、これは容易にわかるだろう。もちろん、美大、音大には、優れたセンスを持つ人材も多い。そういう人間がいるから、教育機関のステータスが保たれているといってもいい。しかし、そのセンスは生まれながらに持っていたモノだ。しかし、数的には努力だけで手先の器用さをマスターした人間のほうが多い。しかし、彼ら、彼女らには技術しかない。悪い意味での音楽職人、美術職人ではあっても、永遠にアーティストにはなれない。センスを持つ人間は、そういう教育を受けなくても、早晩、その才能を開花させただろう。その逆で、才能のない人間が繰り返してきた努力は永遠に報われない。

これは、知的能力という意味でも同じだ。東大を出ようと、慶応、早稲田を出ようと関係ない。その人の能力は、生まれながらに持っている才能に依存している。きらびやかな天才と、努力型の秀才は違うのだ。そして、産業社会には秀才の居場所もあったかもしれないが、それは本質ではない。マジメに勉強だけしていい点を取ってきた人間は、基本的には人間社会の中で通用しないのが原則だ。こつこつマジメに勉強するしかできない、秀才型人間の代表格である官僚たちが、目的を失って行き詰まり、醜態を繰り返している現状が何よりこれを雄弁に語っている。

画一化された人間では意味がない。画一化された人間では喰っていけない。それがこれからの世の中の掟だ。固有名詞で語られる人間でなくては、存在価値がないのだ。だが、教育とは匿名の人間を作ることでしかない。固有名詞は、教育のような外在的なプロセスでは育つものではない。もちろん、教育プロセスが、選別や自分探しの過程としては意味があるかもしれないが、それ以上のモノではない。人間の「いい所」に貴賎はない。もっとも、そのいい所が金になるかならないかの違いがあるが、金になるモノだけが価値があるわけではない。人間一ヶ所ぐらいは誰にも負けない「いい所」がある。そこだけを伸ばせばいい。そのためには教育は無力だ。それより、素直に自分を見つめること。自分に与えられた運命を素直にうけとめること。こちらのほうが、これからは余程大事なことになる。



(00/08/11)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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