政府に頼るな






日本人は、どうしてこう「苦しい時の『お上』頼み」から抜け出せないのだろうか。何か困ったことがあると、すぐ「国」が何か対応してくれることを期待する人がいまだに多い。産業の保護育成を国是とし、先進国(これ自体死語だ)に追いつき追い越せという時代なら、お上頼みの発想も生まれたかもしれない。だが市場原理、競争原理が基本というこういうご時世になった今でも、困ったことにまだまだ絶えることがない。まるで、親離れができないマザコンの子供のようだ。長年保護づけにされている農漁業の人など、ことあるごとに政府の対応を求める。本当の原因は自分の経営力にあるのに、売上不振の救済策を求める小売業の人も多い。しかしお上頼みになるのは、こういった規制や補助を期待する人だけでない。

本来市場原理の競争を勝ち抜かねばならない、企業経営者にもお上頼みの期待論は根強くある。ばらまき行政のスネ齧りでしか事業が成り立たない、公共事業を喰いモノにするためだけにある、建設業界や僻地の企業なら、こういう考えが横行しても仕方ないかもしれない。しかし、お上頼みの発想は、こういう業界のみならず、かなり広く根を張っている。こういう人が困るのは、他の業界はどんどん規制緩和して欲しいけれど、自分の業界には一層手あつく保護がほしいと、虫のいいことを考えていることが多いからだ。自分の仕入れ先は、競争が厳しくなってコストが安くなればいい。だが自分の業界は、既得権益を守ってほしい。これではあまりに虫のいい考えではないか。

国に何かを期待するということは、国による規制を厳しくたり、国による直接、間接の補助・保護策を期待しているということ。こういう人達は、競争を放棄、自助努力を放棄している。もっとはっきりいえば、元から自立は不可能な、競争力を持たない企業や事業者が、各種の保護策や規制により成り立ってしまっているところに不幸がある。事業としてそもそも成り立たないモノが、いわば人工心臓をつけたように、政府の補助により回っているように見えているだけのことだ。その事業は、最初から脳死状態なのだ。それが、高度成長の右肩上りに紛れて、いままで許されてきてしまったというだけのこと。競争原理が重視される安定成長期に入って、化けの皮がはがれてしまったのだ。

ということは、そもそもそういう人達が生き残っていることが、国民経済的には不健全なのだ。採算分岐点を超えてしまっているわけだから、事業をやればやるほど、国民経済的な損失は大きくなる。そういう事業者は、はじめからいないほうがいいのだ。それだけではない、今や農家には、農業で稼ぐことより、農家をカタることにより得られる各種の「補助」を期待している人達のほうが多い。こういう人達のほうが「農家」の主流になってしまえば、農業は腐るしかない。マトモに仕事をしよう、仕事で成功して稼ごうというモチベーションがないからだ。これでは、マジメに農業をやり、それで成功しようと努力している人達が浮かばれない。

このように、お上頼みで政府に何らかのバックアップを期待している人達は、直接的に費用がかかる面でも、間接的にモラールダウンをもたらす面でも、陰に陽に社会的なコスト要因とでしかない。その事業をやればやるほど、ちょうどリンゴ箱の中の腐ったリンゴのように、周辺に害悪を振りまくことになる。そして、そもそもその非効率的な要素を活かし続ける資金は、国民の税負担で賄われているのだ。それだけではない。このような不合理な規制や補助策を遂行するためだけの、官僚機構を維持するコストも国民が負担している。このコストはバカにならないものがある。国民は、二重三重の無駄金を負担させられ、不利益をかこっているのだ。

なぜ、こんなバカげたことになってしまったのか。それはそもそも、国や政府とは何なのかという基本的な考えかたがコンセンサスになっていない点に問題がある。国が語られる必要があるのは、国と国の関係性が問題になる時に限られる。日常生活では、地域はあっても国を意識する必要はない。そう考えれば、国として必要な機能は、つきつめれば外交、国防だけである。これには、相手に対するヴィジョンや戦略が必要になるからだ。このように外部に対してこそ「国」は必要だが、内側に対しては決して必要なモノではない。しいて言えば、治安維持機能だけだろう。

今の日本の政府の問題点は、はじめに肥大した組織と大量の官僚ありきで物事がスタートしている点だ。あるからある。いるからいる。こういう発想では、手段が目的化した政策を立て、それに予算をつけるハメになる。企業の本社機能も小さくするのが常識化している。事務管理機能はアウトソーシングが当たり前。経営戦略機能も、財務や法務といった専門性の高い機能は、これまた外部の専門家を使う。基本的に戦略立案、経営意思決定に携わる限られた人間だけが本社にいる。このほうが意思決定も早く、環境変化へのスピーディーな対応が可能になるメリットもある。

政府も同じだ。行政改革では甘い。徹底したリストラが必要だ。白紙から最低限の機能とは何かを考え、それに特化した組織を考える必要がある。今ある機能、今ある組織、今ある人材は無視してかからなくては意味がない。このように機能を空っぽにした上で、必要な機能については、民営化というか、民のことは民の自主性に任せ手解決すればいい。同じく、公共性のある住民サービス的なモノは、地方分権の中で、それぞれの地域ごとの対応に任せる。これが原則だ。こうやっていけば、そもそも必要ない機能が、自己目的的に、自らの存在を維持するためだけに存在するような歪んだ状況は一掃されるだろう。

中国の各王朝でも絶頂期の皇帝の時代とか、日本でも徳川幕府の絶頂期とか、王権が強力に確立している時期ほど、権力は国民生活から超越したところにあるのが特徴だ。絶対的な王権は、民の些細な問題など超越してこそ確立する。民間の問題は民間に任せて、基本的には干渉しない。というより、フェーズが違いすぎて、干渉できないというのが正解だろう。国家権力とはそういうものなのだ。ちょっと考えてみればわかるが、どんな偉大な皇帝でも、一人の人間だ。情報処理量にはおのずと限界がある。その中で国の運営に必要なモノだけ判断するとすれば、民間のことなど構っていられる余裕はないからだ。

もっといえば、民の暮らしのレベルにまで、いちいちおせっかいをするような政府は、そもそも威厳もステータスもない。対外的な存在感も、薄くなって当然だ。日本のプレゼンスのなさも、ここに起因する。枝葉末節の戦術にコダわって、喜々としているような官僚、政治家には、スケールの大きい将来を見据えた戦略など考えつくわけがない。そして、戦術だけあればなんとか世渡りができた産業社会はもう終わりを迎えてしまった。戦略の良し悪しで、どういう未来が手に入るかが大きく変わる時代となっている。未来に対応したいか、目先のニンジンにまどわされたいのか。選択は二つに一つ。どちらを選ぶのかは、もちろん個人の自由ではあるのだが。


(00/08/18)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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